今期授業最終回:これからの教師「あいまいさの中で決めて進む。それで振り返る。前向きに悩み続ける。自分にとって大切なものを探し続ける。」


半年間対話し続けてきて,前期最後の授業。

私にとっても学びが多くて,この授業,というかこの空間や院生たちに出会えて幸せだったと思える授業だった。

岡田行雄先生とのTT.
キーワード(よく出てきた言葉)は「受動的な教師(になりたくない)」「あいまいさに耐える」「前向きに悩む」

===対話の記録===

・・・色んな教師にあったり話を聞くことが増えて感じたこと。自分では決めずに,環境や政策に愚痴を言い続ける。そういう受動的な教師にはなりたくない。

決めて欲しい人もいるのかも?

確かに,自分の思い込みや興味だけで前に突っ走っていける仕事でもないから,わかるところもある。最近聞いた言葉で,いいなと思った言葉。「あいまいさに耐える。」
この授業で話してきた通り,私たちが目指す仕事の中にはたくさんの葛藤がある。あいまいさもある。でも,逃げずにそういう場に立ち続ける仕事なんだなと思う。

確かに良い言葉だけど,あいまいななかでただ悩むだけでいいわけじゃないよね。僕は,あいまいさの中で,悩みながら,決めて,行動しなきゃならない仕事でもあると思う。

そうだね。誰かに決めてもらってそれをこなすという受動的な教師になると楽だけれど,あいまいさに耐えながら,前に進む教師でありたい。抽象的だけど。
決めてもらったら楽だけど,そういう姿とか見ていると「結局,あなたは何を大切にしたいの?」と思ってしまう。

どういうこと?

目の前にいる子たちにとって大切なものは何か,なんだけれど,それを自分がどう捉えて,どう考えるか。が問われると思う。授業でも出てきたけど,「3分に1回決断する」仕事では,結局,自分が出ちゃう。だから,自分が,問われる。だからこそ,自分と向き合いながら,どうありたいのか,どうあればいいのかを探し続ける。

それは,私の言葉で言うと,前向きに悩み続ける感じ。「2030年の教師」的に変化する未来を正確に予測することはできないけれど,今ある場所で,悩み続けながら,未来に向かって前向きに進むしかない。悩んでやらないとかじゃなく,前向きに進みながら悩む。

私にとっては,あいまいさのなかで,試行錯誤して考え続ける,というイメージ。

その変ってこれに近い?(学習指導要領の答申)・他者と対話して協働しながら,自分を振り返る。・試行錯誤しながら,自ら気づき,変わっていく。実は学習指導要領で目指す姿?教師も,子どもたちと目指すものも近い?

確かに。書いてある。
ただ,学習指導要領について気をつけないといけないのは,指針も方針もあるけれど,それを盲信していいとも思わないし,これを読んでも「はいそうですか」とはなりづらい。

とすると,学習指導要領が出ても変わりづらいのか。じゃあ,どうすりゃいいのかな。

結局,自分で考える。「書いてあるから」ではなくて。
さっき出てきたこと。あいまいさの中で決める。ほんで振り返る。前向きに悩み続ける。自分にとって大切なものを探し続ける。的なことなんだと思う。

===以上===

ポエムっぽいし,抽象的だし,話としては飛び飛びでもある。でも,半年の議論や対話,実習での経験や相談をふまえたなか,お互いのことを分かってきたなかでの言葉だから,地に足がついている気がした。


彼ら(ストマス院生)がリアルなあいまいさや葛藤に出会うのはこれからかもしれないし,即戦力を求められるなかで苦しむかもしれない。でも,この授業の中で出会った言葉や,彼ら自身が発した言葉は,そういう時にも立ち戻ったり,振り返ったりできる言葉,かもしれない。(美化しすぎかな)


なにより,自分にとって,自分を問い直す場だった。ありがたい出会いだった。

と,ひとまず今は思えるような場だった

教職大学院生(現職院生)が研究をやる意味は何なのか

教職大学院生が課題研究(修士研究のようなもの)をやる意味は何なのか
すでに現職として働いている社会人が,研究者になるわけでもない(なる人もいるが)のに研究をやる意味は何なのか

それを整理して語る機会をいただいたので,せっかくなのでブログに記録を残しておくことにしました

そもそもの前提として,教職大学院には様々な現職院生がいる

自ら希望してきた人と,希望したわけでもなく,配置されてきた人がいる。
向き合いたい課題を自ら持っている人もいれば,やるべき課題を誰かから決められて任務として与えられている人もいる。
この期間を通じて何らかの問いや課題にとことん向き合いたいと思っている人もいれば,そんな気もなく,突然,「課題研究」とか「論文」に無理やり向き合わされている人もいる。

それぞれの後者の人が,少なくとも一定数はいる。

加えて,我が大学院の課題研究の負担はそれなりに重く,100ページかそれ以上のものを書く。
教職大学院の中でくらべれば,扱いが重い方(だと思う)で,修論に近いかもしれない。

なぜこんな大変なことをやらされるのか,という思いを持つ人はそこそこいる。
であるからこそ,その意味はどこにあるのか。
そこをきちんと考える機会を持たねば,消化不良のまま重たい荷物を背負わされる(背負わせる)ことになってしまう。

そんななか,課題研究を行う「意味」のようなものを語れる機会をいただいた。

正直,突然の機会だったので,最初は気乗りしなかった
その担当が降ってきたのが,実施の2日前(プチ愚痴)
その前の会議では主担当ではなかった(プチ愚痴)
むしろ,重たい話題で,押し付けられたんじゃないかという気さえしていた(プチ愚痴)

そして,私自身は研究の話をするのが苦手である。なぜなら,研究が下手だから。笑(プチ自虐)
その講座の前日にも「町支くん,ロジックが通ってない」というお話をいただいたばかり。笑(プチ自虐)

そんな私が研究の話をした(プチ自虐)

でもまぁ,結局,やってみた感想としては,やってよかったと思っている

院生の現状は,基本的に,「研究って何?」という状況。
コロナでこれまでまともに研究についての話ができていない。
学校で行われる校内研究のイメージで課題研究をとらえているひとも多い。

というわけで,まずは,研究全体の構造の話。
そして,ロジックの話。ロジックの苦手な私がロジックの話をした。
問いへの「絞り方」の話。
実践や調査の話。評価や分析の話。
途中途中で,自分の問題意識を語ってもらいつつ,それを「研究」にしていくのはどうするのか,そんな相談会っぽい機会も入れてみた。

現職院生の方々からはいろんな疑問が出た。
これまでの相談の機会でもあったのだけれど,「やりたいことを自由にやらせてくれる機会」だと捉えている方も多い。

もちろん,それはやればいいのだけれど,課題研究という枠組みのなかで行うことは,それとは異なる。
自分の「やりたいこと」を,「社会にとっても意味のあることか」「理論的にも意味のあることか」という視点で見つめ直すのは,結構苦痛だ。
私自身,大学院に行った当初,そこで苦しんだ。

大学院の他の先生方のお力も借りながら,そんな思いを受け止めつつ,研究の意味の話に移行していった。

「この研究をすることが皆さんにとってどう言う意味を持つか」について考える機会をとった。

いろんな話は出たが,「自分のやりたいと思っていることを,他人にとっても納得できる形で伝えること」という語りが印象的だった。

もちろん,制度上の意味もあるし,これまで言われてきたもろもろもあるけど,一年半見てきて私なりに思ったこと・伝えたこと(伝えたかったこと)は以下のようなことだった。

=====

①<研究の前半で経験することは>自分のやろうとしていることが…

・世の中から見ても重要か
・これまでに行われてきた実践や研究の視点から見ても重要か
・(自分だけでなく)自分の身の周りの状況から見ても重要か

を,何度も何度も何度も何度も検証すること

>少し抽象的に言えば 自分の踏み出す一歩が意味のある一歩なのかを多様な視点から検証する こと

=====

②<研究の後半で経験することは>自分のやったことが…

・本当に意味や効果をもたらしたのか
・自分の主観だけでなく,他の視点から見ても意味や効果をもたらしたのか

を,検証していくこと

>少し抽象的に言えば 自分が踏み出したつもりの一歩が,本当に踏み出せていたのか,そして本当に意味があったのかを様々な方法で検証する こと

=====

③研究する経験は,どんな意味を持つのか。
(町支なりの考えです。これから皆さんと一緒に考えていけたらと思っています。)

【我武者羅に一歩を踏み出していく】ことも大事です

でも,【意味のある一歩を踏み出していく】ということも大事です。

この場では,自分とも社会とも向き合いながら,【自分の一歩】を徹底的に検証して,意味ある一歩を踏み出すための方法や実践を経験(=研究)します

今後の人生やキャリアにおいても(研究できる/できないはあっても)その姿勢や見方を持っていること自体は皆さんにとって有意義だと考えています

=====

というようなことをお伝えした。

授業後に何人かの院生が話に来てくれたので少しお話した。
その感じでは,深く受け止めてくれた人もポカンの人もいそうだったけど,少なくとも研究のことを考えるきっかけを与えられたようではあった。

最初は,プチめんどい気持ち(あくまでプチ)だったけど,一度このことは自分の中でも整理したいと思ってたので良かった。

人によっていろんな視点や意味や言い方はあるだろうけど,自分なりに腹落ちできるものは自分として持っておきたかったので,それを考える良い機会になった。

そして私自身も,この考えを捉え直し続けながら,現職の先生達と関わりながら,生きていくんだと思うし,そうやって生きていきたい

「教員の学び」は今どうなっているのだろう。これからどうなっていくのだろう。

「教員の学び」はどうなっているのだろう。

「正直それどころじゃない」っていうのが本音かもしれない

課題の採点,明日の授業準備,三密を避けて行事を行うための話し合い。
いろんなものが詰まっていて,教員の学びのための時間も余裕もないかもしれない。

一方で,「今こそ必要」とも言える。

変化に対応するための「教員の学び」が散々言われてきたが,
その変化が想定もしない形で訪れた。
とはいえ,変化させられたのは形式だけで,
例えば,主体性をいかすことや,学習者を中心にすえた取り組みといった
本質的な変化は起きていないかもしれない。
だからこそ,「教員の学び」が必要とも言えるかもしれない。

もっとシンプルな意味で言っても,
新しいやり方を単純に身につけるための学びは,
必要性が高まっているかもしれない。
例えば,zoomの使い方とか。
改めて考えてみれば,そういう「せざるを得ない学び」に時間を取られて,
教師としての感じ方・考え方,あるいは,「センス」のようなものが豊かになるような
そういう「じっくり学ぶ・深く学ぶ」ことは後ろにおいやられているかもしれない。

一方で,学びの「きっかけ」はむしろ豊富かもしれない。
新しいやり方をするときにどこに力点をおくか,
何に違和感を感じるか。
それは深く考えるきっかけになりうる。

さっき言った「せざるを得ない学び」も,
「もっと学びたい」「●●を目指したい」という前向きな学びに
つながるかもしれない。

色々ありえると思う。

ウィズコロナの今の「教員の学び」はどうなっているのだろう

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そして,このあとは,どうなるのか。

学びに対するモチベーションは,これまで以上に二極化していくかもしれない。
その必要性や意義を感じていた人は「今こそ」と思うし,
あまり必然性を感じてこなかった人は「それどころじゃない」と思いそう。

学びの意義は感じながら「今は無理」という人もいるかもしれない。
でも,そういう人はその状況の中で,無意識に学んでいるのではないか。

そんな気がする。

きちんと時間をとって振り返りをするとか,校内研究でコメントをもらうようなことは
なくても,変化の中で感じた自分の感情一つ一つを噛みしめて,
次の1日にいかしているかもしれない。
日常の中でのリフレクションや経験学習のような。

そもそも,学びのあり方は多様だ。

校内研究のような組織的な,意図的な機会もあれば,
同僚性の中で日常的に学ぶこともある。
個人としても,本を読む時間をとったり,振り返りの時間をとることもあれば,
日常の中でぐるぐると経験学習のサイクルを回しているうちに
学んでいることもあるかもしれない。

いろいろな変化がありえるだろうけど,ひとつ思うのは,
惰性で行われてきた取り組みは,淘汰されていくように思う。
「形骸化しているとみんなが感じてきたけどやめられなかったもの」が,
やめられる状況になっている。
少なくとも吟味の対象にはなる。
いきなりやめちゃうということもあるだろうし,
やめないとしたら,どんなやり方をするのか,何を目指すのか。
そういう検討にいくところもあるだろう。

ちょっと大雑把になっちゃうけど,

学ぶということは気づくということだし,
気づくということは,今やこれからが変わることだと思う。

僕自身は,先が見えにくい時こそ,つまり,今こそ教員の学びが重要だと思っている。
これからを考えるためにも,学びは不可欠だと思っている。
ただし,その質はかなり問われる。
つらい今だからこそ,未来の希望につながる学びを。。。

その意味でも,今はどうなっているのか。これからどうなっていくのか。
そういう現状把握やこれからの見通しも持ちつつ,
時間のあまりない中で,質の高い学びを個人でも組織でも実現していくにはどうしたらいいのか。

そういうことを自分としても考えていきたいと思っている。

自由に話せる空間は誰にでもある

批判が怖くて自由に発言できない。それを成長志向が弱いと見ると、それは本人の責に帰すことになってしまう。そして、そんな世界で成長できるのは、もともと柔らかいマインドを持っているか、鋼のハートを持っている人だけになっちゃう。そんなふうに思ってた。

というのも、僕は、「みんながワークショップ慣れしている人たちの集まり」で、「当たり前のように安心している場」で、自分だけが緊張している(ように感じる)ことがそこそこある。そして、そういう場で一人ガチガチで楽に喋れなかったり、焦って無理に喋りまくってわけわからんことを言ってしまったりする。そういう自分を思い出し、上の指摘「批判が怖いのは成長志向が弱いから」をみて、結構自分を責めたことがある。今でもある。

逆にファシリテートする側になると、自分のことを思い出して、「どうせ嫌だなと思っている人もいるんだろうな」と思い、そういう人に触れることを怖がったり避けてしまったり、上手に喋る人に頼ったり、それによって逆に人を傷つけてしまったこともあったような気がする。

だけど、なんとなく最近はそういうのって性格じゃないんだなと思うようになった。性格だとすると、「いつもの自分じゃない人になってもらうような感じ」だし、その人に無理をさせてしまうことになってたりする。でも、たぶん、そうじゃない。0からあったかい空気を作るんじゃない。

よく考えれば、当たり前なんだけど、誰にでも(全ての人、は言い過ぎかも)自由に話せる空間はある。友達、家族、仲間。その空間の広い狭いに個人差はあっても。ある場をファシリテートする人にとっては、その場が、みんなにとって、多くの人にとって、その「(元々知ってる)自由に話せる場」に近い感じなんだと思ってもらえるような、気づいたら昔の友達としゃべってる感覚になれるような、そんな風に考えたいと思った。なにより、そう考えると自分が少し楽になれそうな気がする。

まぁ、これでいいのか悪いのかもわからんけど、僕はしばらくそんな感じでやってみるつもり。

ファシリテーションのことをちゃんと学んでる人からすればそんなもん当たり前と思うかもしれないけれどね。

「問い方のマジック」と指摘する、というマジック

熊本の教育学者の苫野一徳さんの本からは、学ばせていただくことが本当に多い。

例えば、一般化のワナとか、自分自身で「ハッ」とすることも多い(これは一般化の罠だ・・・って思うことがある)し、今日ideariumの記事でも紹介されていた本質を看取るための6つのステップとかは自ら意味を見いだしていくうえで非常に深くて実践的でもある。

この記事で話題にする「問い方のマジック」も、二項対立で分かりやすく整理しすぎちゃう時が自分にもあるなと思います。

ということは前提にしたうえで、一方で、たまにドヤ顔で「それ、問い方のマジックではないですか?」という指摘が行われている場面に出会う場面もあって、モヤモヤする時があります。
なお、整理して考えないといけないと思うのですが、「問い方のマジック」というワードやそれが発するメッセージそのものは非常に重要なのだと思いますし、苫野さんの指摘そのものにはめちゃ共感しますが、それを使って誰かが「問い方のマジックではないですか?と指摘している場面」に出会うとモヤモヤしてしまうことがある、ということです。(整理できてますかねw)

こんなもん、多くの人はそういう前提で捉えているかと思いますが、二つのうちどちらかを選ぶような場面であっても、問い方のマジックという指摘が当てはまる場合と当てはまらない場合はあるわけですよね。後者としては例えば、リソースの観点から両者がトレードオフの関係になっており、どちらに、「より」重点を置いてすすめるのか、あるいは現状と比べてどちらに「より」重点を近づけるのか、選ばなければならない時もあります。それも、両者が大事だとわかったうえで。それはどちらかを選ばねばならない。繰り返しになるけど、どちらかを100にする、という意味ではなく、です。

そういう場合もあることを考えると、「問い方のマジック」という指摘があてはまるかどうかは、その事象をどのように捉えているかのスタンスによるし、その指摘が芯を食っているかどうかは、それこそ100か0じゃない場面が多い(100の時”も”あるとは思う)。

そんな時に「それ、問い方のマジックではないですか?」という指摘がドヤ顔で行われていると、モヤモヤするんす。何にモヤモヤするかというと、「問い方のマジック」という指摘をしている側が、まるで、立ち位置や目的にかかわらず正しいことを指摘しているかのように、もっというと、指摘している側が何か特別の意図を持っているわけではなく「正しい議論を行うために」指摘しているかのような態度でいる気がして、そこにモヤモヤしています。あくまで「自分の主張」なのだけれど、「当然正しいこと」のように指摘が行われることに。

この状況って、勝手に意味づけると、「思考停止を避けるため」の言葉が「思考停止を生む」という状況になっている気がするんですよね。

ちがうかな。どうかな。僕にはそう見えます。

「問い方のマジック」というワードや主張に問題があるわけじゃなく、それを使う側の問題です。

それそのものは、思考停止を避ける言葉です。

でも、それを使う側が、その言葉に安住して考えることをやめてしまう。

結局、いいな、と思ったことでも、考え続けるしかない。

問い直し続けるしかない。

多分、そんなことは哲学(?)においては前提になっていると思うんだけど(例えばこれ見てもそう思う)、かじったわれわれは、信じて疑わず、安住したくなっちゃう。

そんな感じなのかなと思う。

※とはいえ、組織とか集団でそれをやり続けたらつらい。だから、一旦了解するライン、お互い了解しているということを認識しているライン、というのは必要で。でも、とはいえ、それさえも問い直し続けるということなのかと。。。とか考えていると自分でもよく分からん。ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ。。。