働き方改革に関わって3年

学校の働き方改革に関わって3年.

この問題,正直つらい.すぐ燃える.

できれば関わりたくない,とさえ思ってしまう.

多くの研究者が本気でかかわらず,お茶をにごしているのも,よく分かる.

 

それでも,どうにかしたいと思うのは,本当に学校にとって必要な働き方改革ってなんなんだろう,と思うから.

 

各自が,自分らしく,自分たちらしく働く.

これまでの強制でもなく,新たな強制でもなく.

働いて幸せになる.

それは個人としてもそうだけど,それだけじゃなくて.

この仕事について,子どもの成長を目の当たりにした時の,あの,なんとも言えない,教師としての幸せも含めて.

それらを奪うような働き方改革には賛同しがたい.

この仕事にとって行うべき働き方改革ってなんなのかをちゃんと考えていきたい.

個人としても教師としても幸せになれる働き方改革を考えたい.

行政にくさしたり,一部の教員をくさしたり,そんな言説にはお腹いっぱい.

そもそも,そこにばっかり目を向けても仕方ない.

そんなことしている間に,大事なものも失ってしまう.

そう思ってます.

分からないからこそ考える そしてそこには信頼がある

ある授業での、ある先生(A)の一言について、同僚の先生(B)が言ってた言葉。

「あの先生(A)が言ってること、(そこにいる人たちに)全然伝わってなかったでしょ」

この言葉に少し引っ掛かった。なぜなら、僕自身はその先生(A)の授業中の言葉に体がビクんと反応したからだ。むしろ、

「あ、いまあの先生(A)、すごく大事なこと言ってる」

感覚的にそんな気がしたから。僕も、その先生(A)が何を言いたいのかはその場ではわからなかった。でも、体がその先生(A)のその言葉を「受け止めたい」と反応した。

実際、その言葉を三日間くらい反芻した。気になって本も読んだ。その先生(A)にメールもした。大いに学びのきっかけになった。

わからないからこそ考えたんだと思う。

わからないからこそ考える。

この姿勢を身に付けたきっかけは、やはり研究だと思う。考えて、考えて、考える。

これが他者(というか院生)にとっても意味あることなんだと気づかせてくれたのが、今年のオランダ視察。

ずーっと考え続けている院生がそばにいて話しかけ続けてくれたこと。

そのことが自分自身にもたくさん考えるきっかけを与えてくれたこと。

僕自身がある言葉について考え続けていたことが、別の院生さんに考えるきっかけを与えたこと。そしてそれ自体をその院生さんが場に共有してくれたこと。

そういう言葉がいまの自分につながっていると思う。

冒頭の言葉に戻る。

なぜその先生(B)との認識にズレが生じたか。

その先生(B)も、とても敏感で、考えることに価値をおいている先生だと思う。

でも、この場(教職大学院)が、考え続けることに価値をおいていい場なのか、それを表明していい場なのか、についての感覚には差があるかもしれない。

僕自身、いつも考えるきっかけをくれるその先生(A)に会ってなかったら、オランダに行ってなかったら、外に出していいと思えてないかもしれない。

「外に出していい」のベースは信頼だと思う。

わからないことや、わからないことを考え続けていることを、表に出していいんだという、互いの信頼。

それを得られていたり、折に触れて、見せあえていることが、大事なのかもしれない。

そんなことを考えた木曜日。

 

※なお、「分かりやすい」ことに意味がないとは全く思ってません。むしろ、すごく大事なこと。分かりやすいからこそうごく、しこうする、も多分にある。そこを二項対立に捉えたらもったいない。

(行政)研修づくりが授業づくりと違うこと

●出会うまでどんな人が来るのか分からない

最大の違いはここにあると思う。

 

だからこそ,事前の想定を入念にする

だからこそ,出会ってからの関係づくりやチューニングに全力を尽くす

26年。

中学校から出会った友達。

一緒に旅行やテニスをした。

アホなこともするけれど,自分の中の芯がちゃんと通っている人。

適当なところもありつつ,自分で自分の目標を持ち,それを大切にし,邁進する人。

彼の書く文章が好きだった。

自由で奔放でありながら,知性や品の良さも感じさせる文章。

これからも読みたかった。

こんなにも寂しいことなのか。

 

 

寂しいよ。

 

 

また会う日まで。

インストラクショナルデザインの解説をする

というお仕事

勉強になるなぁ