筑駒の授業を院生と見に行きました

先週の金曜日、院生とともに筑駒に向かいました。

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地理の宮崎先生(中1)と国語の森先生(高2)の授業を見せてもらいました。
授業の詳細は勝手にオープンにするものでもないと思いますし書きませんが、どちらもそこにいる子どもたちに必要なものに丁寧に向き合ってなされた授業だと思いました(偉そうだったらすみません)。

事前には少し伝えていたものの、受験対応的な、先取りっぽい授業を想像していた院生からするとどちらも驚きの授業だったようでした。
特に森先生の授業はこれまで見たスタイルと全く異なっており、院生の興味を強く惹きつけていました。
「こういう形の授業もあるんだなぁ」という院生のつぶやきが印象的でした。

あともう一つの反応、これは両授業ともに出ていた反応ですが「これは筑駒だから出来る」というものでした。
こういった反応は筑駒のような学校を見にいっても、モデル校の授業を見にいっても、海外を見にいっても、いつも出てくる反応です。
ただ、そういう風に断じて、考えたり感じることをやめてしまうのはとても勿体ないことだと僕は思っていますので、この反応についてはその後少し時間をとって対話してみました。
そのあたりについては結構お互い話し込んだので、また別エントリーで書きたいです。

今回の訪問を行なったきっかけは、院生の方から「筑駒の授業が見たい」という声があがったことでした。
こういう「いろんなものを見てみたい」という気持ちはかなえてあげたいなと思いますし、加えて、それを実現させるのは自分の役割かもなと思います。

というのも、自分がたぶん教職大学院のなかで一番「現場から遠い」教員だからです。
研究の業界的に言えば、たぶん現場に「近い」方の人間です(現場の方と協働することも多く、現場の方の視点をもってする物言いが多いという意味で「近い」と表現しています。)が、職場の組織の中では、元校長や元指導主事の方がたくさんおられるので、現場から「遠い」方の人間です。

「近い」のと「遠い」のとどちらがいいというわけではありません。
むしろ、研究業界的にも、職場組織的にも、「近い」と「遠い」の両方がいることが大事だと思っています。
そういう意味では、職場組織内では、「遠い」人間である(かつ、それなりに「近さ」にも理解があるw)ことをいかして、視野を広げたり、これまでと違うものを見たり、という機会につないでいきたいと思います。
「揺さぶる担当」ぐらいに思ってます。

そして、そのためにもですし、自分のためにも、僕自身がいろいろなところに「出て行く」ことをしていきたいなと思っています。

「未来を語る高校」が生き残る―アクティブラーニング・ブームのその先へ

 

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マナビラボから本が出ました。
村松さん・渡邊さん編著、中原先生監修、JCERI執筆協力です。
僕も一部執筆しています。

「未来を語る」というのがキーワードだと考えています。
僕のマナビラボの二年間で、村松さん・渡邉さん・田中さんから一番学んだことも、このキーワードに関連しているかもしれません。

「将来、世の中はこうなりますので、こういう力が必要なので、こういう教育をやっていきましょう」みたいな話があります。
私もよくします。
その変化に合わせて学校や教育が変わっていく
その側面も非常に重要です。

でも、それに加えて、もう一つ未来への関わり方があると思います。
高校生も学校も教員も社会の一員であるととらえるならば、未来はつくっていくものでもあるはずです。
「高校生も学校も教員も社会のプレイヤー」というのは、当たり前のようで忘れがちでもあると思います
最初に示した見方は、捉え方によっては高校生や学校を社会の外に置いて、社会の未来が勝手に決まっていくようにも見えるかもしれません。

未来を予測してそれにあわせていく。
それだけでなく、今そこにいて社会の一員として「どういう社会をつくっていくか」を語る。
「未来を語る」というのは、そういう意味を含んでいるのではないか。(と、解釈していますw)

以下、もろもろのリンク。
内容については中原先生のブログに詳しいです。

●amazon
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4761925442/

●中原先生のブログ
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/10351?fbclid=IwAR3r6GqaJ6W8bFZ-4wz47upEj59teoO_NZN953m07fXECRDxBRvvCh0iQxc

ものづくりの民主化

SFCの教授でパターンランゲージで知られる伊庭崇先生編著の本 「クリエイティブラーニング」の中で出てきた言葉。
かっこいい。

この本はまだちょっとしか読んでないけど、面白そうなにおいがプンプンしている。

https://www.amazon.co.jp/dp/4766425723/
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参考
● https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO2843697022032018000000
● https://www.nttdata-strategy.com/pub/infofuture/backnumbers/57/report05.html

逐語記録とビデオ記録

今日、教職大学院において、ビデオを用いたリフレクションに関する講座があった。

その中で逐語録とビデオ記録の違いの話が出ていたので簡単に印象を整理した。メモ。

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授業の逐語録を作ると、言葉にフォーカスすることになる。それ以外を捨象すると、授業で起きている【論理展開】を見ることができる。映像化すると、授業の【空間の展開】を見ることができる。

逐語録で記録されるCは【発言したC】、映像化で記録されるCは【発言していないCも含めて全てのC】。学んでいるのは【全てのC】ただし、授業の展開に影響が大きいのは【発言したC】

逐語化されたものを自ら読むと、【そうだよなぁ、そうだったなぁ】という印象。自分の感覚を整理しながら振り返るような感じ。映像化されたものを見ると、【いやちがう、俺じゃない】【私ってこんな感じなの!?】という印象。自分の感覚を揺さぶられる感じ

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教師の不祥事をどう見るか;専門性への信頼と引き受けられるリスクの大きさ

人と人のかかわりだから、どうなるかわからないけれど、その場の一瞬の判断で踏み込まないといけないこともある。そしてそれが失敗すれば責任をとらざるを得ないのがプロ。特に学校の場合は子どもも関わるから、責任を取ったぐらいでは許されないのが、教育のプロ。「不確実性」と一言で言えば他の業界と一緒だけれども、その振れ幅の大きさと予測可能性の低さと影響の大きさ・深刻さと、個人が取るべき責任の大きさはかなりでかいと思う。

業界単位で言えば、その覚悟もなく無頓着に踏み込むことが多すぎるから社会や世間から批判されて当たり前だと思うし、特に、個別の事例としては批判されて当然。親目線でみても、仕方ないではすましたくない。一方で、そういう内実も難しさもおそらく想像可能な立ち位置の方が、そういう失敗例をことさらに強調して、一面的な批判で全体の信用をおとしめるようなことをするのは、何を目指しているんだろうと思う。

その結末として想定されるのは、何も問題を起こさないところに業界としてラインを引くこと。規則で縛っていくこと。問題も起きないかわりに、学びも成長も制限されていくし、柔軟な対応もできない。教員に自由を許さないから、その先の子どもにも自由を許せず、強烈なコントロールをかけようとするんだと思う。スタンダードが良い例。

(なお、このことを言い訳に甘えるのも逆に違うと思う。)

結局のところ、専門家がどこまで信頼を得られるか、という話だと思うし、それに見合う力をもっているか、ということ。今、世間の見立てとしてはかなり低い。許される権限の大きさと、引き受けられるリスクの大きさは、大きく言えばセットなわけで。専門家として信頼されているからこそ、自由が許される、リスクのある判断も可能になる。信頼されなければ、即興的な判断よりも、事前のライン引きが優先される。

学びの質を高める専門家でありながら、子どもを守る専門家でもある。つくづく難しい仕事だと思う。自分自身について言えば、そこから逃げずに覚悟をもって働く人が、より専門家として力量を高められる手伝いをしたいし、自分自身も逃げずにその責任とリスクを引き受けながら教師教育を行いたいと思うし、同時に、その専門性が社会から認められるように働きかけたいとも思う。少なくとも、逆側に立って必要以上に断絶を強調するようなことはしたくない。