月別アーカイブ: 7月 2013

文系大学院生のキャリア② ~業績とキャリア~

今日は以前書いた記事の続編を書きたい。

前回、「文系の大学院生は研究者をめざしている」というしごく当たり前の事を書いた。

ここまで書いて思ったのは、最近、そういう人ばかりではないという事。
研究者になっても、研究や教育をするだけではなく、NPOや、その他の任意団体を立ち上げて
「実践的活動」を行う人が増えているのではないだろうか。
起業したり、企業と連携を取って何かする人もいるだろう。
これについてはまた別の機会に書きたいが、そういった人たちにとって「研究者」というのは片足の置き場である。
もう片方の足は別のところにある。
これは、純粋に「研究者として生きていく」ことをめざしている人達とは違うキャリアと言ってもいいだろう。

などなどいろいろ考えられるかもしれないが、先ほどもいった通り、これについてはまた今度。
いずれにせよ、研究者となることが目標の一つである事には変わりはない。

そのために必要なのは、「業績」である。

業績とは、【自分の著作・論文・学会発表】の集合の事である。
これらの業績を一覧にしたのが『業績リスト』である。
先日、ある大学の准教授の方と話す機会があったのだが、新しい研究者の採用を行う場合、
最初はこの「業績リスト」のチェックが行われるのである。
リストがしょぼければ(研究者としての活動実績が少なければ)、この時点でサヨウナラ。
単純に業績の「数」が多ければいいというわけではないが、
やはり、少ないと、研究能力に不安を感じられてしまってもしょうがない。

先程の方とは別の研究者の方に言われたのだが、私の研究室の先輩方は
「優秀な人が多くて、一つ一つの業績は素晴らしいんだけど、いかんせん(業績の)数が
少なすぎる」らしい。
リストの長さもバカにしちゃいけない。

かく言う私はというと、業績が圧倒的に足りない。
今、増やしてます。シコシコと。

しかし、「業績業績」とばっかり言ってると「業績厨」と揶揄されることもあります。
つまり、研究者の本来の目的は「真理を追究する事」なので、
業績を増やすことや就職に熱心になりすぎる事は必ずしも称賛されるものではないかもしれません。

が、、、、、そうは言っても、院生だって職を得なければ、研究を続けられないし、メシも食えない。

そんなわけで、今日も学会発表の要旨作成に取り組むわけです。シコシコと。

ってな話は置いといて。

【書籍・論文・学会発表】のリストであると書きましたが、一つ一つの業績の意味は均一ではありません。
たとえば書籍について言えば、共著の一人よりも単著がいいし、編著者になるとデカイ。

論文も、【査読あり】か【査読なし】かによって、大きく評価が異なる。
【査読】というのは論文に対する審査で、実績ある研究者たちによって行われる。
この審査に通る事で、論文が学会誌などに掲載されるのである。
審査に通るのは、よくわからんけど、応募論文の5~10%ぐらいのイメージ?
とにかく、狭き門なのです。
【査読なし論文】というのは、書いたら載せてもらえる媒体(研究室の紀要など)に載せた論文。
【査読あり論文】というのは、審査を通り、学会の雑誌などに掲載された論文。
当然評価が高いのが【査読あり論文】
これが何本あるかによって、院生に対する評価は全然違います。

学会発表、これも【査読なし】【査読あり】があります。
が、自分の関わる領域では殆ど【査読なし】の発表です。
申し込んだらできます。
これについては、「国際学会」で発表する事が国内の学会で発表するより評価されます。
また、やはり小さい学会で発表するより全国学会で発表する方が評価されます。
しかし、いずれにせよ、学科発表の位置づけは業績の中では低いです。
「学会発表」は業績としては何も意味がないという人さえいます。
むしろ、ある人によれば、学会発表は業績として意味がるというより、
「こんな研究をしている人がここにいますよ」というアピールの場だとも言われています。

こちらの意味合いの方が強いかな、という気がします。

また、どの業績においても、「協同研究」と「個別研究」がありえます。
学会の個人発表と共同発表みたいな。
で、評価が高いのは当然個人研究です。

色々書きましたが、以上のように、【業績】を増やす事で、大学への就職の道が開けます。
もちろん、業績さえあればいいわけではないですが、前述したように一つの大きな判断材料には
なっているようです。

また、業績の数は他の事にも波及します。

例えば、博士の学位。全国的な学会で●会掲載された、っていうことが、博士論文を審査してもらう事の
条件になっていたりします。
あともう一つが「学振」。これは、研究補助のお金もらえる制度ですが、これも【業績】が評価基準の一つに
なってます。

今さら思ったけど、この辺の事は今既に研究者をめざしている人にとっては「当たり前」の
話である。しかし、研究者をこれから目指す人の中には、意外と知られてない事も多い。
大学院生でも、修士の段階ではこれらの事を知らない人も、実はいる。
特に、社会人経験があって大学院に来た人や、留学生などは知らないこともおおい。

そういったわけで書いてみました。

こんなところで、私、眠くなってしまいました(現在3時)。

もうだめだ。

目が、目が、目が、、、、、、、、メガマック、、食べたい。

おやすみなさい。

書評を書く

ひょんな事から、研究書の書評を書く事になりました。

初体験です。。。

それにともない、いくつかの書評を読んで特徴をみてみる事にしました。

経験のある方には当たり前の事ばかりでしょうが、メモっときます。

①構成

書評は大まかに分けると二部構成です。
前半は、その本の内容。
後半は、それに対する評者の意見・コメントといった感じです。

前後半の分量のバランスを見ると、私が読んだ四つの書評では後半が30%・15%・10%・0%でした。
基本的に前半が中心ですね。
0%のものもありました。
これは、図書紹介と言ってもいいかもしれません。

②前半

前半は、次のような流れをしているものが多かったです。
<本全体の目的・本全体の流れ・各章ごとの内容・理論的貢献>という感じです。

流れの部分を「本書の構成」というタイトルとし、本の目次を載せているものもありました。
が、それは若干字数稼ぎ的かほりがしました。
もちろん、目次を載せた方が内容が伝わるという本もあると思います。
ただ、私の読んだものは字数稼ぎのにおいがしました。。。勘違いですよね。すみません。

③後半

後半は、「本書の課題」として書いているものもあれば、「今後の論点」としているものもありました。
言いたい事は同じだと思いますが、後者の方が柔らかい感じですね。
これは著者と評者の関係にもよるのかもしれません。

あと気になったのは、その分野の研究における『根源的課題』を示したもの。
例えば、学校経営に関わる研究で「良い教育とは何なのか」を論点としてあげたり、
各国の事情を紹介したものに対して「国ごとに事情が違うので比較軸が難しい」と言ったり。
そういうものも結構ありました。

④前・後半の意味

「評者らしさ」を出せるのは間違いなく後半です。
が、だからこそ前半が大事な気がします。

つまり、「自分はコメントをするに値するくらい理解してますよ」というのを踏まえる部分だと思います。
先行研究の流れ、その研究の貢献、といった事が見えた状態でのコメントであるという事を示す場、でしょうか。

極端な例ですが、ある課題についての論点がA・Bある事が分かっており、すでに先行研究でAの部分について分析が行われていたとする。
で、当該の書物の特色が「Bについて分析した」というものだったとする。

それに対して唐突に「Aという論点もある」とコメントしてしまったら、マズイ。
「Aが既に行われている」という流れが分かってない人になってしまう。

逆に、Aが先行研究で明らかにされている事は理解したうえで、また、Bがその本によって分析されたことを踏まえたうえで、
【Bの知見をみるとAをもう一度再評価する必要があるのではないか】と指摘するのは有り得る事だろう。

ま、極端な例ですが、「分かってますよー。分かったうえでこれから自分の意見言いますよー。」的なところが前半なのかなと思います。

以上、いくつか気付いた点を書きました。

書けば書くほど、自分が書評をするのが怖くなってきました。笑

ま、やってみようと思います。

ではでは。

学生が学校に関わること

大学生が小学校や中学校に関わること。

これは、学校にとってはプラスになる事もあり、マイナスになる事もあります。
基本的にリソース不足な学校にとっては、学生ボランティアは重要な資源の一つです。
また、「学生」というナナメの立場が子供たちにとって安心感をもたらす事もあるでしょう。
教員には作り得ない「距離感」が子供たちにとってプラスになる事はたくさんあると思います。

ただ、一方で、その関わりは学校をメチャクチャにする事もあります。
例えば、大学生が中学生とつきあっちゃうとか。
そんなの無いだろって思うかもしれませんが、割と聞く話です。
他にも、無責任な大学生がやってきて、持ち物なんかも持ってこない、時間には遅れる、ドタキャンするとか。。。
大学生の管理に労力がかかって、全体的に見れば学校にとってはマイナス、なんていう話も良く聞きます。

こういう話がどの程度あるかは分かりませんが、でも、学校としては「身構える」というのが正直な所だと思います。

また、学外の機関をシャットダウンすればすむかというと、そうでもない事情も個々にはありそうです。
良い悪いは別として、学外の機関との関わりが今後減っていくという事は考えられませんよね、増えていく方向だと思います。

であれば、大学との関わりだけじゃないですが、学外の機関との「関わり方」が今後重要になるかもしれませんね。
「どこまでを他の機関に委ね、どこからは自分たちの範疇とするのか」というライン設定。

学校が不確実性に対して不安になる事は否定されるべきではなく、正論であろうと(私は)思います。
ですから、学校のそういう不安に寄り添って、より良い「ライン設定」、より良い「関わり方」を模索していくような取り組みが必要とされているかもしれません。

それをせずに「開け・開け・開け」と繰り返すばかりでは、キャパシティ以上のリスクを抱える事にもなりかねないと思います。

以上。

「色んな人の関わりは重要なんだけど、それにプラスして必要なことがあるよ」って話でした。

(※以前書いていたものをアップロードしました)

第七回文教交流会(体罰問題) メモ

昨日は文教交流会でした。

今回は小学校の図書館が会場でした。

初めての試みです。

「学校、懐かしいなぁ」という声もポツポツ聞こえてきました。

さて、今回は「体罰」がテーマでした。

ぶつぶつと思った事を書いたのですが、自分のためのメモとしても残しておこうと思います。
時間ないのでそのまま載せます。

●体罰は懲戒の一種。懲戒ってのは教育的な罰。
●アリナシ的に言えば、体罰以外の懲戒はアリ。体罰はナシ。

◇ただの暴力と体罰とを分ける意味は「教育的意図があるかないか」?意図?
暴力も体罰もナシなので現場的にその違いは意味ないけどね。
整理は必要、と。

●体罰かそれ以外の懲戒かという分かれ目はかなり曖昧
●体罰となるのは、(文科省の通知によれば)身体に対する侵害、肉体的苦痛

↑これだと、力を使って何かをする事が全てダメそうだけど、そうでもない。
体育祭とかで所定の位置につかない子を力で動かすのはアリ。などなど、「力を行使してもアリ」なパターンはいくつかあった。
ただし、境界はかなり曖昧。
例えば、http://blogs.yahoo.co.jp/gta7ca/57658834.htmlの事例。高裁までは「体罰」。最高裁は「体罰でない」。

◇体罰かどうかの判断には「肉体的な侵害」かどうかがあるが、実際の場面では、「頭や心に残せるかどうか」が勝負な感じ。指導が入るってのはそんなイメージ。「頭や心に残す」ことを意識してたらいつのまにか「肉体的」な境界をこえていた・・・みたいな体罰ってある気がする。
どうでもいい話だけど、肉体的な境界をこえていたっていうのは。

●実際の場面での「体罰かどうか」は非常に判断が難しい

 ・周りの子を守ったり、その子自身を守るために、「力」を使う事を「瞬時に」決めなきゃいけない場面がある(「他の選択肢はなかったか。」は、結果論的に)
 ・指導を入れる・刺すという意味でも、「即時に」反応する事が大事
 ・1対1の関係だけでなく、周りの子の目もある
 ⇒ 一瞬で色々な事を判断しなければならない。

◇その場その場での判断はかなり難しい。
  そしてそんな事が毎日起こる…苦しいわぁ
  ただ「その時」以外にもやりうる事がある。

●例えば事前の対策
 ・ケーススタディなどで内面化しておく
 ・「人権感覚」について自分を問い直す機会をもっておく
 ・指導のルール・方針を子供や保護者に伝えておく。
(何かあった時に理解しやすい。誤解を生みにくいことは問題が大きくならないためにも大事)

◇こういった事は「これをやれば防げる」という類のものではない。だから反例もある。だけど、「故に意味がない」という事ではない。こういう事を重ねていくしかない。というか、「これをやれば体罰は防げる」ものはない。

●学校に色々な人が入るようになった難しさ
  臨時講師や外部コーチなど・・・
  「連絡取りあって、こちらで対応」なんてのは言うのは簡単だし、形式状は出来ても
  どこかでほころびが出る。そういう時に事故は起こる。

 ◇そういった人たちとはどこまで情報共有すれば・・・
  「学校でやってほしい事」が増えて、教員は増えなくて、、、
  苦肉の策で外部の人をいれたらこんな問題。

●「なんで怒られてるか」は、子供には分からない事が多い。
・教員が多少演技しながらも、人間的な反応(?)表情とか動作でイヤがっている事を伝える。頭ではなく感情で分からせる。って感じ?
・とにかく「シンプルに」伝える。“人を蹴っちゃダメ”だけ。
・内容を反復させる。無理矢理でも記憶に刻み込ませる。本質的に分かってるかは別としても、心と頭に残させる意味がある。(本質的な理解は後からついてくるかも)
⇒その言葉を保護者に伝えさせる。ただし、担任はその前にこちらから一方入れとく。「こんな指導しました。」みたいな。
–子供が曖昧な言葉で伝えると保護者は誤解しやすい。
–何も事前情報がない中でそんな話が出ると保護者は動揺しやすい。

◇現場には色々なスキルがあるなぁ。