全国教育者会議に参加して思ったこと

今日は、全国教育者会議に行ってきました。

色々思ったこと。メモ。書き残しておきます。

最初に言いますが <長い> です。

●「教師に情熱は必要か。」なくてもいい、と登壇者の方がおっしゃったのに対して反発の声(ツイート)も多かった。

情熱を見せる事が上手な人と苦手な人がいる。情熱を見せる事が嫌いな人もいる。でも、根本的には、心の奥底には必要だと思う。

ただし、「現場から立ち去るべき」だとは全然思わない。
情熱的じゃない(ように見える)人は必要だと思う。
全然仕事しなくて、楽なことばっかやってて、サボりまくってる人もいるけど、そういう人の言葉の方が刺さる子もいる。
自己肯定感が低い人の言葉に安心する場合って結構ある。

そうは言っても、情熱的じゃない人が多くなり過ぎると、学校は回らない。
「誰の担当でもないけど誰かがやらなきゃいけない仕事」が学校にはたくさんあるから。
楽する人ばかりになると、学校は回らないのも確か。
多くなり過ぎると、学校は弱体化するよね。
だけど、↑の理由から一定程度(少数)はいてもいいと思う。

●「教員は授業だけやってればいい。その他の事(部活とか生徒指導とか)は他に任すべき。」
これは登壇者の発言ではないが、ツイッターの中でこういう発言をする方がいた。
これは先日の「中学校教員辞めます」ブログとも関わる。

この意見には全く賛成できない。

今日の発言の中にもあったけど、学問的な内容にせよ、生徒指導的な内容にせよ、「誰が」それを言ったのか、という点は教育においてかなり重要。
同じ事であっても、Aという教員が言うのとBという教員が言うのでは全く意味合いが違う。

そして、その「誰」のイメージを形作る事は授業の中だけではなかなか出来ない。
むしろ、生活の中で、例えば給食の時間に、例えば、いじめが起きた時の対応の中で、あるいは、部活動の中で、そういう授業以外の時間での場合が多い。

「この人の話なら聞こう」と思えるような信頼関係が、授業の中だけで作れるとは到底思えない。

一緒に汗水たらした人が言う「ここ大事だよ」と、授業だけしてる人の「ここ大事だよ」は、全く意味が違う。
万引きについて一緒に謝ってくれた人が言う「これ一緒に考えてみようよ」と、授業だけしてる人の「これ一緒に考えてみようよ」は全然違うのだ。

授業は大事だし、その中で信頼関係作る事も大事だけれどね。
その中の関係だけで伝わる子もいるけどね。
だけど、そうでない子も相手するのが公教育。

例えば思春期まっただなか、廚二病バリバリ、大人なんて大っ嫌いの子から信頼を得るのに、授業の中だけで出来ると思えます?
僕は到底思えない。

故に、授業だけやっていて、良い授業をする事は出来ない。

もちろんスリム化は進めるべきだけど、それは「授業だけやる」方向にいっちゃダメだと僕は思う。
一クラスの人数減らすとか、色んなものをシステマティックにやるとか、あるいは、削減できるどうでもいい業務って他にもいっぱいあるし、そういう方向でいくべきだと思う。

授業のプロであるためには、授業以外の時間の過ごし方が大事だという事。

(↑この項、色々とブーメラン・・・)

●再ネットワーク化の話

教員が、「教員に出来ない事」に気付く事は大事だと思う。
そして、専門領域でないことについては、色んな立場の人を巻き込んでいく事は大事だと思う。
子どもの自己肯定感を高めたり、色んな評価軸、色んな生き方があるという事を見せていくうえでは、色んな人が学校に関わる事は大事。

だからこそ、それをどう進めるか、は丁寧に考える必要がある。

実際、学校に関わってくる外部の人の中には、好き放題言って、学校と子どもとの信頼関係を崩していく人もいる。
自分の言いたい事を伝えるために、「学校的なもの」を批判して、満足して、でも、その後に全く責任を持たないって人もいる。

「どこまで入ってもらって、どういうように関わってもらうか」を丁寧に考えられる人が必要だろう。

さて、その役割は、誰が担う?

教員しかいない気もする。

ただ、それを求めるのは、酷かもしれない。

学校支援コーディネーターのような立場がうまく機能したり、あるいは、行政が「外部からの関わり方」のガイドラインを作ったり、そういうような事が必要だろうな、と思う。

最後に。

色々思うけど、たびたび感じる事。

“閉鎖性批判も分かるけど、現場が委縮する原因を作ってるのもあなたみたいな人だよ”

●「相互承認」が大事

その通りだと思う。

相互承認があるからこそ、一定の自由が成立する、というのは良く分かる。

ただ、相互承認が大事という人は、相互承認が大事でないという人を承認できるのだろうか。
白田さんの言っていたような、ある意味型を教える、悪い言い方をすれば型を押し付けて、多様なやり方を承認しないような人も、素晴らしい影響を子どもに与えていたりする。

苫野さんは「それも一つの状況に合った形」(と言うような事をおっしゃってた気がする。曖昧な記憶。)

大事なのは、そのやり方が唯一の解だと思わない事。なのかな。
その厳しい先生が他のクラス、他の担任にもそれを求めるのではないという事。なのかな。
「認め合う」という事でさえ、唯一絶対の解だとは思わないという事。なのかな。

なのかな。

苫野さんの本、読んでみよ。

●「現場に言ってもろもろ吹っ飛んだ」

白田さんの話。

ものすごーーーーーーーーーーく良く分かる。

最初の自分もそうだった。

「公」教育ってものが全くわかってなかった事が良く分かった。
現場でしか分かり得ない部分と言うのは、厳然として、確実にある。
ただ、それは「現場に関わってない奴は何も言うな」という事ではない。

というのは、俯瞰した立場でしか見えない景色もあるのだ。
当たり前だけど。
逆に、俯瞰した立場では見られないものもあるのだ。
これも当たり前だけど。

あさたにさんの「知らないって事を知る」じゃないけど、
鳥の目で見ても、虫の目で見ても、どちらでも全てを見る事は出来ないし、どちらも欠かす事は出来ない。

だから、色々な立場の人が偏見を持たずに関わっていく事が大事なんだろう。

ただね。

「現場を知らないくせに言うな」と言いたくなる気持ちは、分かる。
まるで全てを知っているかのように現場批判されるとね。
現場は視野狭窄だって言っている君が視野狭窄だよ、ふん!

って言いたい気持ちは良く分かる。

でも、そういうのは不毛。

●「多様性」の偏り

今後、大切にしていくべき多様性。

本当の意味で、多様であってほしい。

多様性と言った時に、「民間で活躍してる人」しか想定しない人も多くいる。
いわゆる「意識の高い人」みたいな想定も多い。

そういう人が現場に増える事は、何か新しいものをもたらしてくれると思う。

でも、そういう人であっても「知らない事を知っている」という事は、重要だと思う。

「僕たち私たちが関わらないと教育は良くならない」あるいは、「僕たち私たちが関わると教育は良くなる」みたいなんで学校に関わっていく事は、無責任だと思う。

●現場を離れて日頃のうっ憤を晴らすような教員にはなりたくない

それぞれの学校には、古い体質の教員もいるし、頭の固い管理職もいる。
でも、そういう人を動かせないと物事良くならないよ。
泥臭いけど、政治であり、根回しであり、立ち回りであり、そういう事ってどの職業でも必要な「力」だと思う。

教育にはいろんな正解があるから、故に、新しい事を始めるのは難しい。
意見対立が起きやすい。

だから、何かを変えていくには「あの人が言うんだから、やってみよう」と同僚から思われるような教員になる事が大事。

「結局ケツまくるしかないんだよ、同僚から信頼得るには。」
そう言ってくれた先輩がいたことに感謝。

現場に不満はあっても、学校の外の場でその愚痴を言いあって、傷を舐めあうようにはなりたくない。

適当に話し合わすけど、そんなに好きじゃない。

●保護者との関係

「保護者」に寄り添える、というのはちょっと細かいポイントだけど大事だと思った。

いわゆる「モンスターペアレンツ」話も出た。

僕は時にはスルーする事も大事だと思う。

いくらこちらが正しい事を言って、また、子どもだけにそれが一時的に伝わったとしても、保護者の「プライド」を傷つけたらとりかえしがつかない。

寄り添いながら、大事な所できちんと想いを伝えられる教員は強いね。

◆◇◆◇◆ 「良い教師」について、結局思ったこと ◆◇◆◇◆

苫野さんのいう「状況〇〇(←忘れた)」的というのが良く分かる。
状況によって「よい教師」は違うということ。

で、その状況の中には「当人」の在り様も含まれると思う。
つまり、その人によって「よい教師」は違うということ。

そういう場合、生徒目線で、「生徒によってよい教師は違う」という事はよく言われるんだけど、
教師自身にとっても、それは言えること。

教員自身がどんな人格で、どんな個性なのか、という事。
それによって「よい教師」の在り方は当然異なる。

大事なのは、自分がどういう個性でどういう人格なのかを分かっている事。
それが分からないと、昔の被教育体験に頼る事になる。
「あの時のあの先生みたいになりたい」

なる前や、当初はそれでいいと思うんだけど、自分が「その人」ではない事に気付いた時、どうするか。

自分なりの「伝え方」を見つけていける事が重要。

教員と言うのは「正論」を言う仕事。
大人とか社会とかどうでもいいと思っている子にも「あいさつしよう」を伝える仕事。
それをするためには、「自分にフィットした」伝え方でないと、無理。

そのためには、初めに戻るけど、自分の人格や個性を理解する事。

そのためには、自分について内省する機会を持つ事。
あるいは、他の教員、他の教育者との間で相対化する機会を持つ事。
対立するのではなく、相互承認しながら、相互の違いを意識し、それによって「自分」というものを知っていく事。

自分を知る事によって、(+子どもを知る事によって)
「自分なりの伝え方」が見えてくる。

それが、白田さんの言う「自分の色が出せる教員」ではないかと思う。

それを出来る人が、ツイッターで見た「(最終的に)よい影響を与えてくれる人」になれるんではないか。

●自分に引き付けていうと、、、

教員の人材育成っていうのは、内省する機会・相互承認する場を作って、自分について理解する事、自分なりの伝え方を形成していく事につながる機会をつくる事ではないか。

そんな事を思った。

ながながと書きました。

おしまい。

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