月別アーカイブ: 4月 2015

5年

私は、かつて中学校の教員をしていました。

その職を辞してから5年たって、今は、大学の教員をしています。

かつての中学校と今の大学は同じ沿線にあるので、

中学校で担任をしていた当時の学年の子が、今の大学に通っていたりします。

既に何人かには会って少し話をしたんですが、

「基本的に変わらないなぁ」という感想と「大人になったなぁ」という感想の

両方があります。

一方、この5年で自分は何が変わったんだろ、って事を考えたりします。

昔より論文書けるようになったんだろうか。

教育に関する専門性は高まってるんだろうか。

 
 
・・・わからんな。

とりあえず、体重は15キロくらい増えましたな。笑

ずっと運動してないからなぁ。

5年の重みってやつですな。

いやぁ。。。

。。。腹減ったなぁ。

よよよよい。

今日は、月曜日。

頑張っていきましょい。

メディアのバイアスの話 キッチンのはしっこにあった黒霧島をチビチビやりながら思ったこと

友人のFB見てたら、メディアのバイアスの話が出てた。

思った事、書いてみる。

高校生ぐらいのころから思ってる事。

———–

そもそも、バイアスのかかってないメディアなんてない。

真に中立的な情報なんて無い。

たとえ一次情報伝えてても、その情報を選んでる時点でバイアスかかってる。

むしろ、メディアとのつきあい方という意味では

あっちのバイアスと、こっちのバイアスと、そっちのバイアスと、全部バイアスがかかってて、

それらを全部見て、中心をぼんやりと探る、そんなような感じじゃないかと。

各地の震度から震源地探るようなイメージ・・・なのかな。笑

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もうちょっと言うと、「あっちはバイアスかかってて、こっちはバイアスかかってない」って

思った時点で危ういと思うんだよね。

「あそこの新聞社は中立だ」、みたいに思ってる時点で、自分を一旦相対化する必要が出てくる感じ。

「あそこの新聞社の考え方は自分の考えに近いから好き」はあってもね。

「あそこは中立だから好き」ってのは、あり得んのだと思うんですよ、うえで書いた通り。

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ま、なんでこんな事思ったかって言うと、そこに書かれてた内容で

「偏ったメディアは避ける」ってのがあったんですよね。

僕は、そんなことできないと思うんすよね。

「偏った情報は避ける」ってのは、裏を返すと、

「偏ってない情報がメディアのどっかにある」と思ってるわけで。

そんなもの、ない。と、思うんですよね。

「偏った情報は避ける」っていうのは、

↑で書いた、「こっちの情報は偏ってて、こっちの情報は偏ってない」って状態。

それは、そのメディアが「偏ってない」んじゃなく、「自分の立ち位置に近い」というだけ。

それ取り違えると、、、よくないような気がする。

———–

そーゆー意味で言うと、どこかの会社を選んで新聞を買わなきゃいけなかった時代に比べ、

各社の報道姿勢を簡単に比較できる今は、便利になったよなと思う。

ただ、その差異を目の当たりにして、差異に敏感になる事は非常に重要だけど、

その結果、「自分の考えに近いから」と「中立だから」を取り違えるようになると、

かえって怖いよなと。そんな風に思います。

————

怖いよなと思う理由は、つまり、何度も言ってる通り、

「自分の考えに近いから」と「中立だから」をはき違えちゃいけないと思う理由は、

前者だったら、わりと別の視点にも柔軟に関われると思うんだけど、

後者だったら、排他的になっちゃう。

前者だったら、「この見方は自分にとって心地よいだけで、

別の見方を心地よいと思う人もいるんだろうな」くらいに思える。

ある程度、ほかの立場を認められる。

おれの考えとあなたの考えは違って当たり前だから、

じゃーそれをふまえてどうすんの、って思える。

でも、「こっちが中立で、あっちは偏ってる」って思っちゃうと、

あいつらが間違ってるだけ、あいつらがアホなだけ、ってなっちゃう。

先に進めず、宗教対立になっちゃう。

歴史の問題なり、原発の問題なり、

日本で色々な問題が宗教対立っぽくなっちゃう背景には、メディアリテラシーの問題も

あるんじゃないかと思う。

————

さて。

メディアの話はおしまひ。

今週後半は毎日2時間睡眠ぐらいで、

今日、一つの研究報告が終わって、

じゃあちょっと一杯みたいな感じで15分だけ飲んで、

ほろ酔いになって、

かえった頃には冷めて、

仕事して、

またこの時間になってダラダラ飲んでる、

というテンションで、今日の日記は書いてみました。

ああ、フワフワして気持ちいいですな。

寝よ。

おやすみなさい。

ICT活用の支援 〜コナレること〜

以前ブログにも書きましたが、この4月から、某大学において教員として働かせていただいてます。
着任以後、情報教育関連など様々なお仕事に携わっているのですが、いま最も自分が関わっているのは、教育学科におけるICT活用の支援かなと思います。
電子黒板やらタブレット連携やらの実践を充実させていくために、先生方にたいする研修の企画などを行っています。

で、自分で触ってみてますます実感するのですが、ICTはやはりツールなので、
「コナレテル」のが一番大事だ、ということです。
逆に、何か、例えば研究授業のための花火として扱おうとすると、
たまにしか使わないのに目立とうとする実践をやっちゃったりすると、
言い換えれば、ICTを「使う事」自体を目的にしてしまうと、
やはり、「コナレテナイ」感が出て不自然になってしまうかなと思います。
(↑自分の仕事と少し矛盾しますがw)

例えば、電子黒板からタブレットに何かの画像を送信する場合、ネットワークの事情やらその画像の重さにも関わりますが、全員に共有されるまで少し時間がかかります。
こういう“間”って、結構嫌いな方もいると思います。
「ん、送られたかな? まだかな?」と心の中で思いながら、気まずい“間”が出来てしまい、子どものタブレットを見回してキョロキョロしてしまったりする。
授業のテンポ、というか、そういうものがスムーズにいかない感じしますよね。

でも、こういう間って、必ずしも電子黒板による画像配信に限った話ではなく、普通にプリント配った場合でも、前の子に渡して、後ろの子に届くまで、ちょっと時間かかりますよね。

・・・その“間”って、気まずいですか?
そうでもないですよね?

「いま配ってるやつはな、結構大事だから、ちゃんと名前書いとけよ」とか、「ほらそこ、しゃべってないでちゃんと後ろ回して」とかなんとか、意識しなくとも自然に何かをやってますよね。

多分、タブレット使う事にコナレテくると、「今から見るやつは、先生が三日前に撮ったやつでね…」みたいなことを無意識に喋りながら待ったりして、そんな風に自然に間が過ぎていくようになるんじゃないか、と思います。

コナレた方が良い、ってのは当たり前の当たり前なんだけど、合わせて思うのは、【コナレテクレバ気にならなくなるもの】が結構あるという事を認識しているかしていないか、というのは結構大事かなと思います。

最初に出会う変な“間”で「もーいやだ」ってなっちゃったら勿体ないですからね。
その辺りを長い目で考える事の必要性をおさえておく事も大事かなと思いますし、自分の仕事に引きつければ、そういった辺りを自然に伝えられるような企画って大事かなと思います。

はい。以上。

アダプティブラーニング

最近、久しぶりに会った友人から面白いワードを聞いた。

「アダプティブラーニング」

“個々の生徒の学習進行度に合わせて、適切な問題を最適なタイミングで提供する教育手法”らしい。(http://www.isid.co.jp/news/2014/0515.html)

ビッグデータを活用して、個人に合った学習を提供する、とのこと。

“学習過程で得られる大量のデータをベースにして、独自のアルゴリズムと組み合わせながら、個々の生徒に対して適切なコンテンツを提供していく、というモデルは様々な形で発展してきています。多くの資金がこの領域のベンチャー企業や大学研究費に流れ込んでいます。”(http://globis.jp/column/4161/)

すでに様々な動きが出ていて、リクルートなども本格的に動いている模様。

そういえば、受験サプリとかは、こういう考え方に近いんじゃないかな。

面白そうな話ではあるが、「学び方・学ぶ内容を自ら選びとること」を放棄して良いんだろうか、とも思う。

もっと深く知らないと良い悪いの話は出来ないが、今後話題になりそうな感じはする。