月別アーカイブ: 12月 2015

メンター方式とは② : なぜ今メンター方式なのか〜中教審答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」を受けて

前回に引き続き、メンター方式に関わる記事、第2弾。
今回はちょっとタイトルが長いが、ポイントは「なぜ今メンター方式なのか」である。

前回も書いた通り、メンタリングとは『先輩が後輩の不安や悩みの解消、業務の指導・育成を担う』ことであり、この関係は、かつては、学校の同僚性の中で自然に築かれていたものであった。
一方で、今回の答申にて言及されたメンター方式は、研修の「方式」の一つとして提言されている。
つまり、自然に築かれるものを意味しているのではなく、このような関係をある程度公的に、意図的に築くイメージである。

なぜ、かつては自然にあったものを、今、意図的に公的に築いていく必要があるのか。

その背景にあるのは、「年齢構造の変化」である。

以下に2つのグラフを示す。
二つの年齢構成グラフ

これは、私がいつも(一緒に飲んでいる)共同研究している脇本さんのFacebookから引用したものである。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1022738321119953&set=a.409802005746924.97157.100001513852939&type=3&theater
平成10年と25年の東京・神奈川・大阪の小学校教員の年齢構成を比較したもの。
このグラフは、FB上で70以上シェアされた。

グラフから見て取れるように、今の年齢構成は、ベテランと若手が多く、中堅が少ない『M字型』である。

注目したいのは、若手と中堅のバランスである。
かつては、若手と同等、あるいは、中堅の方が多いくらいであった。
一方、今は、若手の方が圧倒的に多い。
若手にとって、「頼りになるお兄さん・お姉さん」的世代にあたる人たちが足りてないのである。

また、中堅世代は、学校の重要な職務を担うミドルリーダー的存在になっている場合も多い。
多忙化の進む現代の学校においては、若手の育成になかなか力を注ぎづらい状況である。

こういった背景があって、かつてあったような自然な先輩後輩関係が築かれにくくなっている。
そのため、「メンター方式」が必要とされているのである。
メンター方式は、先輩後輩関係の形成やそこでの学びを公的にサポートするものである。

次回以降は、具体的に「どうやって」の部分に触れられたら、と思う。

ではでは。
年内のブログはこれが最後になるかと思います。
というわけで、良いお年をー。

参考:メンター方式(メンターチーム)関連記事

メンター方式とは① : 中教審答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」を受けて

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【参考:メンター方式に関わるその他の記事】

●メンター方式とは①:メンタリングとは←ココ
●メンター方式とは②:なぜ今メンター方式なのか
●メンター方式とは③:内容や手法の紹介
●メンター方式とは④:セーフティネットとして

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【本文】

2015年12月21日に、「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」と題された答申が発された。(教育新聞「中教審総会で3答申 馳文科相に手交」https://www.kyobun.co.jp/news/20151222_01/

アクティブラーニング、チームとしての学校ICTなどなど、最近の潮流を表すキーワードも盛り込まれ、様々な面で話題となっている。

例えば、アクティブラーニングはここ数年散々言われてきたが、アクティブラーニング的な学びの場を作れるような教員をどう育てるのか、ということはこれまでそれほど言われてこなかった。また、研究者の身分に関わって言えば教職課程認定の話はスルーできない問題である。

他にも、教員養成指標を策定する流れになったこと、養成・採用・研修の一貫性がうたわれるようになったこと。(これは、これまで割とスルーされてきた「採用」が改革の対象となったという意味合いも持っている。)また、より細かい点としては、教員採用試験における共通問題の作成が示されていることなど、割と多彩なポイントがある。

自分の研究に関わる側面でいえば、「メンター方式」に言及されていることが大きなポイント。ここ数年、横浜市教育委員会とともに、メンターチームに関わる調査や実践を積み重ねてきた(参考:当ブログ「メンターチーム」検索)。
教員養成部会のメンバー(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/meibo/1363205.htm)には、かつての横浜調査時に大変お世話になった校長先生の名前もあり、横浜市のメンターチームが一つの参考になった可能性は高いだろう。

しかし、一般的に言って、「メンター」という言葉は認知されているとは言い難いんじゃないだろうか。
自分も初めて「メンターチーム」という言葉を聞いた時(当時は現場の教員であった)は、「メンタル的にサポートするためのチーム」ではないかと思っていた。
多くの人にとって馴染みのある言葉かといえば、そうではないというのが現状ではないだろうか。

そこで、しばらくは(続けば。気持ちが続けば。)メンターやメンタリング、メンターチームについて書いていきたいと思う。
アカデミックに、というよりは、イメージで描いていきたいと思いますんで、もともと研究してる方からはツッコミを受けるかもしれません。
ツッコミお待ちしております、というか、むしろ、修正していただけるのはありがたい。。。

メンターという言葉の語源は、ギリシャ神話に登場する「メントール」という人物だったと思う。メントールは、人生の先輩として王子を導いた人。この物語が由来となって、『指導者・後見人・助言者・教育者・支援者という役割を全て果たす人(久村1997)』を意味する言葉だと言われている。

と、書くと、全知全能というか、ものすごく素晴らしい人をイメージしてしまうかもしれないが、メンターという言葉のイメージとは少しずれてしまうかもしれない。むしろ、次のような感じをイメージしてもらうと分かりやすいんではないだろうか。

社会人になってそれなりの経験をへた人が、かつてを振り返って、「今の自分があるのはあの人のおかげ」みたいな事を言うことってありませんか?
「あの人に出会えたことで私は成長できた」と思えるような人。
相談に乗ってもらったり、悩みを愚痴らせてもらったり、時には方向性を示してもらったり、あるいは叱咤激励してもらったこともあったかもしれない。
若い自分を、それなりに近い距離から見守ってくれたり、背中を押してくれた人。

そういう人を「メンター」と考えると良いと思います。
また、そのメンターと、後輩(メンティーと言います)との関係を「メンタリング」と言います。

昔からある研修っていうのは学ぶ内容を基点に考えるもので、いわゆるOJTは学ぶ場面を基点に考えると思いますが、メンタリングは人と人との関係を先ずベースに考える、という形です。
そういう意味では、視点は異なるとはいえ、これまでの初任者研修やらOJTと、重なる部分もあったりします。実際、大阪府のOJTに関する文書には、メンタリングの概念が紹介されていたりします(次世代の教職員を育てるOJTのすすめ~学校で育てるために~http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/6350/00000000/ojt.pdf)。

また、さらに言えば、かつて日本に自然にあった「同僚性」の中での先輩後輩関係というのは、メンタリングのイメージに最も近いと思われます。
こういった関係を、自然発生に任せず、ある程度公的にサポートしていくのが、「メンター方式」と考えるのが良いと思います。

では、なぜ、この「かつて自然にあったもの」を公的にサポートしていく必要があるのでしょうか。
この辺りについては、「大量採用」が関係しますが、これらについて、次回、書いていきたいと思います。

さて、最後に、本の紹介をしておきたいと思います。
自分の本です。笑
メンターチームについての調査結果をまとめた本です。
後半には、メンターチームを行う上での留意点なども紹介しております。

というわけで、良かったら、ポチしてください。笑
お願いします。

【教師の学びを科学する:データから見える若手の育成と熟達のモデル】9784762828973

続きはこちら(↓)から
参考:メンター方式とは①〜④

頭を使う。 〜学習科学〜

模擬授業を見て思ったけど、やっぱり、「頭を使ってる」「考えてる」って状態を目指すのは大事だと思う。
形としては、言葉としては、「●●を学ばせる」みたいな目標なんだけど、それは「●●についての知識を得る」みたいなことではないと思うのよね。
「それぞれが頭を使って●●を獲得する」ってのが、目指すところだと思うのよね。

最悪、●●は獲得できなくてもいいよ。
頭を使って考えれば。
最後に●●に繋げるのは、逆に、教員の力技でもありな気がする。

とにかく、頭を使うこと。
脳みそ溶けるぐらい考えること。

そこに至る筋道を作りつつ、そこに至るきっかけづくりをしつつ、一方で、学習者に委ねつつ、「それぞれが頭を使って●●を獲得する」に至るというね。

やっぱり、そこ目指すのが授業づくりだと思うんだよなぁ。

なんというか、改めて言うことでもないとは思うんだけど、これを実現するのって、思った以上に難しいんだよな。

教員採用試験の共通化に関する問題

標題の政策。

これまでの流れ

①5月に教育再生実行会議からの第7次提言に盛り込まれ、
②7月、中教審における「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」 中間まとめにも入り、
③11月の上記答申(案)にも入っている。

流れからすれば、このまま決定されるのだろうか。

細かい点はひとまず置いといて(書く時間があと3分しかないので)、とりあえず関わりのある文言をあげておく。

①教育再生実行会議からの第7次提言

3. 教師に優れた人材が集まる改革
~教育の革新を実践できる人材に教壇に立ってもらうために~

(全国的な教師の育成支援拠点の整備)

この拠点は、教育基本法第9条の理念が実現されるよう、上述の全国的な教員研修・支援のハブ機能を担う。また、現在、都道府県・政令指定都市ごとに実施されている教員採用選考について、その効果的、効率的な実施の観点から、この拠点を中心とした共同試験を実施し、その結果を各都道府県・政令指定都市が活用できるようにすることについても検討する。

②中教審「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」 中間まとめ

4.改革の具体的な方向性

(3)教員採用に関する改革の具体的な方向性

②教員採用試験における共通問題の作成に関する検討
○ まずは、各都道府県等における教員採用の際の試験問題作成上の負担軽減や、
新たな教育課題を踏まえた適切な試験の実施等の観点から、各都道府県等の採
用選考の内容分析やニーズの把握等、必要な検討に着手すべきである。

③中教審「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い、高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~」答申案

4.改革の具体的な方向性

(2)教員採用に関する改革の具体的な方向性

②教員採用試験における共通問題の作成に関する検討
○ まずは、各都道府県等における教員採用の際の試験問題作成上の負担軽減や、
新たな教育課題を踏まえた適切な試験の実施等の観点から、各都道府県等の採
用選考の内容分析やニーズの把握等、必要な検討に着手すべきである。
○ 独立行政法人教員研修センターが、教員の資質能力の向上に関する調査研究
を行うようになることを考慮すれば、こうした調査研究が教員採用試験の共通問題
の作成し検討する際にも大いに役立つと考えられることから、当該法人が積極的
に関わるべきである。

ほめ言葉のシャワーと菊池先生

ほめ言葉のシャワーが話題になっている。
テレビに出たからなのかな。
僕は見れなかった・・・

僕は、菊池省三先生を尊敬している。

最初に見たのは「プロフェッショナル 仕事の流儀」で。
その時に感じたのは、集団と個との関わり方の上手さ。
僕なんかが「上手さ」と言ったらおこがましいかと思うけど、出るとこ、引くとこが、もんのすんごく絶妙すぎた。
まさに「力ある教員」だという気がした。
ここは自分がいうところ、ここは子どもに任すところ、ここは集団に預けるところ、ここは制度化するところ。
そこの塩梅が、絶妙。
空気の作り方、タイミングが、圧倒的。
結局、そこだよな、と。

「ほめ言葉のシャワー」もやっていたけれど、手法うちの一つだと感じた。

次に見たのは、中原先生の企画で。

対話が生まれる場をつくる: 子どもの対話 × 大人の対話
http://www.nakahara-lab.net/2013/02/_76.html

「対話をうみだす”実践知”を、トップランナーから学ぶ」 : 子どもの対話 vs 大人の対話
http://www.nakahara-lab.net/2013/05/_vs.html

この時、参加者は学校の教員(つまり、菊池先生の元々のファン)ではなかった。
主に企業の方々。
そんな中でも、菊池先生はドッカンドッカン盛り上げ、対話を生み出していた。

偉そうな言い方なのを承知で言うと、「この方は本当のプロだ」と思ったし、本物だなと感じた。
よく、研修講師と学校教師を比較して学校教師をディスる人もいるんだけど、学校の教員のファシリテーションは、まったく負けていないと思った。
少なくともこの場面では圧勝だった。
教員の技術はプロフェッショナルだと誇りを持ち始めたのもここが一つのきっかけ。

菊池先生が対話を生み出す上で大切にしていると話されていたのは、<自分を大切にすることと他人を大切にすることをつなげる>ことであった。
<他者に興味を持つことと違いを認めていくこと>を繋げていくことだともおっしゃってた。
それによって、コミュニケーションを生み出していくのだ、と。
(当時の汚いメモを見てるので、あってるか分かりません。すいません。)

この二つのきっかけがあって、僕は冒頭で述べた通り、菊池先生を尊敬している。

これらの中では、「ほめ言葉のシャワー」はそれほど重要な扱いではなかった。
イベントの時にも、「ほめ言葉のシャワー」の話は殆どしてなかった。
「ほめ言葉のシャワー」は上にあげた目的を達成するための「手法の一つ」でしかない。

この記事にも『菊池さんはクラス全員で一言ずつほめる「ほめ言葉のシャワー」などの取り組みを通して「集団の中で個を変える」「クラスの一人も見捨てない」「クラス全員が成長する」−−ことを目指した。そんな授業を経験し、子どもたち一人一人は変わっていった。』とあるように、「ほめ言葉のシャワー」は手法の一つでしかないのだろう。

教員にとって大事なのは、その手法をいつどのように用いるか、という部分であって、僕自身は菊池先生をそういう意味で尊敬している。

またこれは別の言い方をすると、その手法が「いつでも誰でも使える」なんてことはない、ということを意味している。
菊池先生自身、そうは全く思っていないと思う。

この先生の投稿はまさにその通りだと思う。

思想も覚悟も持って、子どもたちの文脈と絡めて、その時その時の判断を大切にしながら用いることで、初めてその手法が力を発揮するんだと思う。

これは昨日のICT関連の投稿とも絡むと思う。
手法は選択肢の一つでしかない。
どんな手法だってそうでしょう。
リフレクションしかり、メンターチームしかり、学び合いしかり、ほめ言葉のショワーしかり。

だから、手法だけを取り上げて良しとするのもダメだとするのも、やっぱり極端かなと思う。
全体の文脈、環境があって、目的があって、その中でどう活かすか、という話であって、その手法を「知ってる」とか「できる」というのは、前提条件でしかないだろう。

逆に言えば、「この手法では○○が出来ない」という批判も意味がない。
もしそういう批判があるとしたらそれに対する返答は

「この手法の目的はそこじゃない。」

以上、さよなら。

もう少し丁寧に答えるならば、

「○○をするためには、▽▽も加える必要がある」とか「○○を目的とするなら、この手法は使わない」とか「その状況ならこの手法は用いない」

それだけのこと。

ただ、これって致し方ない部分もあると思う。

「手法が全体の中に位置づくこと。」
「手法がその先生の取り組みの一部だということ。」
これは当然のはずなのに、周りの人が、その人を、そのワードでくくっちゃうところがある。
 ○○教授と言ったら、まなびの共同体。
 ○○先生と言ったら、学び合い。
 ○○教授と言ったら、ジグソー法。
みたいなね。
その先生はそれだけやっているみたいなイメージでくくられてしまう。

それぞれの先生は、その取り組みや考えのメリットデメリット分かっているのに、周りに勝手に神格化され、それを全方位的に推している人かのように見られてしまう。
前述の「○○先生と言ったら、○○」みたいにね。

今回の菊池先生の場合も、そうなんじゃないかと勝手に想像している。
テレビの取り上げ方としても、その一つの手法にクローズアップするような形だったんじゃないかと思う(見てないけど)。
かつてのプロフェッショナルが菊池先生の教室に入っていたのに対して、スタジオ番組であるってことも影響するんじゃないだろうか。
つまり、分かりやすいところ(=ほめ言葉のシャワー)をクローズアップしちゃう。

で、手法だけを見ての批判などがあるんじゃなかろか。
学級全体の取り組み中での位置付けなんて、注目されないんだろう。
(もちろん、菊池先生の側もそのワードを推す部分は戦略上あったりするんだろうけど)

ということで、結局、【見てないのに勝手な想像で】長々と書いてしまった。。。
近いうちに、何らかして動画をゲットしたいと思います。


 

◆◆こっからは余談◆◆

さっきの、「手法と個人の結びつき」みたいなものは、学校教育に関わる大学教員においては、特に注意する必要があると思う。
というのも、現場の実践家が何かの手法を押す時、「そればっかり推している」とみられることも有りえなくはないけど、ちょっと考えれば、その先生がそれだけやっているわけではなく、集団や個との関わりの中でそれをやっているということ、つまり、見ている自分と同様に学級や学校の文脈の中でそれを活かしていることは想像できる。

でも、大学教員の場合って、「そればっかりやってる」と見られてしまいそう。
その手法を盲目的に推しているように見られがちかも。

例えば、僕は三宅先生にあって、三宅先生の本とかを読んだりする前は「ジグソー法の人」としか思っていなかった。
三宅先生ごめんなさい。
いろんな本を読んだりして、学習科学の専門家であり、学習に対する無限の情熱がある素晴らしい方であって、その中の一つとしてジグソー法があることを知った。

佐藤学先生もそう。
佐藤先生自身が、「学びの共同体」に対して批判的に語ったりすることもある。
ちゃんとバランスが取れている。
広い知見と全体のバランスの中で捉えている。

そのあたり、たまに怪しい大学教員って、いたりもする。
周りに言われるんじゃなくて、自分から言っていくような感じ。
自分から○○の人です、と言っている大学教員は、僕個人の感覚からすると、なんか胡散臭い。
もちろん、専門は言うんだけど、専門を「分野」で語る大学教員はわかるんだけど、専門を「手法」で語る大学教員は、、、なんだか、ちょっと。

自分自身は、そうならないように気をつけたいもんだなと思う。

。。。とか思ったけど、そもそもまだまだ自分には語れる専門がないし、「〇〇の人」と思われるものさえない、ということに気がつきました。

さ、がんばろ。