ほめ言葉のシャワーと菊池先生

ほめ言葉のシャワーが話題になっている。
テレビに出たからなのかな。
僕は見れなかった・・・

僕は、菊池省三先生を尊敬している。

最初に見たのは「プロフェッショナル 仕事の流儀」で。
その時に感じたのは、集団と個との関わり方の上手さ。
僕なんかが「上手さ」と言ったらおこがましいかと思うけど、出るとこ、引くとこが、もんのすんごく絶妙すぎた。
まさに「力ある教員」だという気がした。
ここは自分がいうところ、ここは子どもに任すところ、ここは集団に預けるところ、ここは制度化するところ。
そこの塩梅が、絶妙。
空気の作り方、タイミングが、圧倒的。
結局、そこだよな、と。

「ほめ言葉のシャワー」もやっていたけれど、手法うちの一つだと感じた。

次に見たのは、中原先生の企画で。

対話が生まれる場をつくる: 子どもの対話 × 大人の対話
http://www.nakahara-lab.net/2013/02/_76.html

「対話をうみだす”実践知”を、トップランナーから学ぶ」 : 子どもの対話 vs 大人の対話
http://www.nakahara-lab.net/2013/05/_vs.html

この時、参加者は学校の教員(つまり、菊池先生の元々のファン)ではなかった。
主に企業の方々。
そんな中でも、菊池先生はドッカンドッカン盛り上げ、対話を生み出していた。

偉そうな言い方なのを承知で言うと、「この方は本当のプロだ」と思ったし、本物だなと感じた。
よく、研修講師と学校教師を比較して学校教師をディスる人もいるんだけど、学校の教員のファシリテーションは、まったく負けていないと思った。
少なくともこの場面では圧勝だった。
教員の技術はプロフェッショナルだと誇りを持ち始めたのもここが一つのきっかけ。

菊池先生が対話を生み出す上で大切にしていると話されていたのは、<自分を大切にすることと他人を大切にすることをつなげる>ことであった。
<他者に興味を持つことと違いを認めていくこと>を繋げていくことだともおっしゃってた。
それによって、コミュニケーションを生み出していくのだ、と。
(当時の汚いメモを見てるので、あってるか分かりません。すいません。)

この二つのきっかけがあって、僕は冒頭で述べた通り、菊池先生を尊敬している。

これらの中では、「ほめ言葉のシャワー」はそれほど重要な扱いではなかった。
イベントの時にも、「ほめ言葉のシャワー」の話は殆どしてなかった。
「ほめ言葉のシャワー」は上にあげた目的を達成するための「手法の一つ」でしかない。

この記事にも『菊池さんはクラス全員で一言ずつほめる「ほめ言葉のシャワー」などの取り組みを通して「集団の中で個を変える」「クラスの一人も見捨てない」「クラス全員が成長する」−−ことを目指した。そんな授業を経験し、子どもたち一人一人は変わっていった。』とあるように、「ほめ言葉のシャワー」は手法の一つでしかないのだろう。

教員にとって大事なのは、その手法をいつどのように用いるか、という部分であって、僕自身は菊池先生をそういう意味で尊敬している。

またこれは別の言い方をすると、その手法が「いつでも誰でも使える」なんてことはない、ということを意味している。
菊池先生自身、そうは全く思っていないと思う。

この先生の投稿はまさにその通りだと思う。

思想も覚悟も持って、子どもたちの文脈と絡めて、その時その時の判断を大切にしながら用いることで、初めてその手法が力を発揮するんだと思う。

これは昨日のICT関連の投稿とも絡むと思う。
手法は選択肢の一つでしかない。
どんな手法だってそうでしょう。
リフレクションしかり、メンターチームしかり、学び合いしかり、ほめ言葉のショワーしかり。

だから、手法だけを取り上げて良しとするのもダメだとするのも、やっぱり極端かなと思う。
全体の文脈、環境があって、目的があって、その中でどう活かすか、という話であって、その手法を「知ってる」とか「できる」というのは、前提条件でしかないだろう。

逆に言えば、「この手法では○○が出来ない」という批判も意味がない。
もしそういう批判があるとしたらそれに対する返答は

「この手法の目的はそこじゃない。」

以上、さよなら。

もう少し丁寧に答えるならば、

「○○をするためには、▽▽も加える必要がある」とか「○○を目的とするなら、この手法は使わない」とか「その状況ならこの手法は用いない」

それだけのこと。

ただ、これって致し方ない部分もあると思う。

「手法が全体の中に位置づくこと。」
「手法がその先生の取り組みの一部だということ。」
これは当然のはずなのに、周りの人が、その人を、そのワードでくくっちゃうところがある。
 ○○教授と言ったら、まなびの共同体。
 ○○先生と言ったら、学び合い。
 ○○教授と言ったら、ジグソー法。
みたいなね。
その先生はそれだけやっているみたいなイメージでくくられてしまう。

それぞれの先生は、その取り組みや考えのメリットデメリット分かっているのに、周りに勝手に神格化され、それを全方位的に推している人かのように見られてしまう。
前述の「○○先生と言ったら、○○」みたいにね。

今回の菊池先生の場合も、そうなんじゃないかと勝手に想像している。
テレビの取り上げ方としても、その一つの手法にクローズアップするような形だったんじゃないかと思う(見てないけど)。
かつてのプロフェッショナルが菊池先生の教室に入っていたのに対して、スタジオ番組であるってことも影響するんじゃないだろうか。
つまり、分かりやすいところ(=ほめ言葉のシャワー)をクローズアップしちゃう。

で、手法だけを見ての批判などがあるんじゃなかろか。
学級全体の取り組み中での位置付けなんて、注目されないんだろう。
(もちろん、菊池先生の側もそのワードを推す部分は戦略上あったりするんだろうけど)

ということで、結局、【見てないのに勝手な想像で】長々と書いてしまった。。。
近いうちに、何らかして動画をゲットしたいと思います。


 

◆◆こっからは余談◆◆

さっきの、「手法と個人の結びつき」みたいなものは、学校教育に関わる大学教員においては、特に注意する必要があると思う。
というのも、現場の実践家が何かの手法を押す時、「そればっかり推している」とみられることも有りえなくはないけど、ちょっと考えれば、その先生がそれだけやっているわけではなく、集団や個との関わりの中でそれをやっているということ、つまり、見ている自分と同様に学級や学校の文脈の中でそれを活かしていることは想像できる。

でも、大学教員の場合って、「そればっかりやってる」と見られてしまいそう。
その手法を盲目的に推しているように見られがちかも。

例えば、僕は三宅先生にあって、三宅先生の本とかを読んだりする前は「ジグソー法の人」としか思っていなかった。
三宅先生ごめんなさい。
いろんな本を読んだりして、学習科学の専門家であり、学習に対する無限の情熱がある素晴らしい方であって、その中の一つとしてジグソー法があることを知った。

佐藤学先生もそう。
佐藤先生自身が、「学びの共同体」に対して批判的に語ったりすることもある。
ちゃんとバランスが取れている。
広い知見と全体のバランスの中で捉えている。

そのあたり、たまに怪しい大学教員って、いたりもする。
周りに言われるんじゃなくて、自分から言っていくような感じ。
自分から○○の人です、と言っている大学教員は、僕個人の感覚からすると、なんか胡散臭い。
もちろん、専門は言うんだけど、専門を「分野」で語る大学教員はわかるんだけど、専門を「手法」で語る大学教員は、、、なんだか、ちょっと。

自分自身は、そうならないように気をつけたいもんだなと思う。

。。。とか思ったけど、そもそもまだまだ自分には語れる専門がないし、「〇〇の人」と思われるものさえない、ということに気がつきました。

さ、がんばろ。

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