ICTと教員 〜反省的実践家と手法〜

・学生対象に、ICTの活用についての話や、ICTの体験会をやっていると必ず出る意見が「これじゃあ教師いらないじゃん」。昨日もそんな話が出てた。
・似たような意味で出てくるのは、ICTの活用は教師に任せずに外部委託した方がいい、というもの。昨日もFBでそんな投稿を見た。

前者は「これじゃあ教師の仕事なくなっちゃう」、後者は「教師はダメだから」が背景にあるとはいえ、「ICTさえあればなんとかなる」という考えは同じ。

でも、私自身の実感では、ちょっと違う。

確かに、実際、ICTを使うと、最初は誰でも学びを起こしやすい。
モチベーション高いし、なんとなく楽しい雰囲気になるし、学びを起こしやすい。
みんな、はじめての体験だから。
ワクワクやってみる。
最近じゃあ色々な実践書というかマニュアル的なものも増えているし、デジタル教科書はすごくよくまとまっている。

でも、その手法さえ使えば盛り上がるのはせいぜい三回。

あとは、これまでの授業と同じように、生徒・学生の空気を感じとり、表情をよくみて、個性を考慮し、文脈をふまえて、、、簡単に言うと、クラスの空気を感じ取って、それをふまえて、タイミングと手段(どのようにICTを使うか、もちろんICT使わない方法も)を考えて、次の一手をだす。ということが必要。
例えば、ICTを使う授業を予定していても、その場で違う使い方にしたり、あるいは、使わないという判断も当然あるだろう。

そういったことが出来なきゃ、いくらICT使ったって学びを起こすのは難しいんじゃないかな。
よくいう話だけれど、ICTは手法(群)の1つだから。
その手法をどのように使うかは、結局、教師の力量に関わってきたりする。
その個人なり、集団なり、学級なりの文脈を感じ取ってその場その場の判断の中で活用していく、という態度はまさに反省的実践家のそれではないかと思う。

そういう意味で、教員の力量や専門性は、ICTを活用していくうえでも必要とされるんじゃないだろうか。

自分の実感からするとこんな感じ。
最初のように言っている方々であっても、実際何度か使ってみたり、あるいは、(研修など)一回の学びと学校のような継続的な場での学びとの違いを意識してもらったりすると、なんとなく気づいてもらえたりする。

ま、教員が子ども(集団)と対峙する専門家でないとしたら、そもそもの前提崩れるけどね。


※補足1:今回取り上げているのは教員側の使い方の問題。ただ、子どもたちの主体的な学びの場においてもファシリテーションは依然として重要だと私は思う。

※補足2:(狭義の)デジタル教科書について書いた この記事 における『「上手く使う」一辺倒にならず、「上手く距離感をとる」という事も今後は必要になってくる気がします。』というあたりの考えと近いかも。(狭義の)デジタル教科書は、まとまりが良すぎるので、より注意が必要、という話。

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