メンター方式についての誤解

◆メンター方式のイメージ

先日、こんな記事が出た。これに限らず「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について(答申)」に関しては様々な記事が出ており、大なり小なり、メンター方式に言及したものも多い。

それらの中には、メンター方式について「指導者と若手」の関係、というような形で表現しているものが散見される。
しかし、この書き方は、ちょっとなんか誤解を与えそうだな、と思う。
このように書かれた記事を見ると、メンタリング=経験豊かな先輩が後輩に何かを【伝授】すること、という印象を受けてしまうのではないだろうか。

また、大量採用に向かう前ぐらいの自治体、つまりベテランが大量にいてまだ若手が少ないような自治体の教委の方とメンター方式のお話をしたりすると、「ベテランの技を若手に【伝授】せねば」といったニュアンスの事をよく言われていたりする。
そこでイメージされているのも、経験豊かな先輩から後輩への一方向の伝授・伝達、という形のように思う。

それはそれで大事な点だとは思うけどね。
ただ、メンタリングは、そう単純じゃない(メンタリングの「ガチ」専門家では「ナイ」私が言いますが)。
その辺りを今回は書きたいと思う。

◆メンターのスタンス

メンタリングが上記のようなものと「異なる」点。
その最大のポイントは、メンターの姿勢というかマインドだと思う。
メンタリングについて書いた岩川(1994)によると、メンターに求められるのは「共同探求的なスタンス」である。

つまり、【一緒に学ぶ】という姿勢。

ここを忘れると、単なる指導者でしかないと思う。
これまでの初任者指導教員と変わらんと思う。
そうではなく、初任者の不安や悩みをベースにしつつ、初任者の自律性を活かしながら、【一緒に考えていく】ということ。

これが圧倒的に大事だと思う。

◆持論と自論

この違いを強調して言うとすれば、メンタリングは、メンターと若手が、新たな何かを生み出すってこと。
自分のそれまでの経験と持論だけじゃ分からなかった、何かを生み出すってこと。

そのためには、自分の持論をテーブルの上に乗せることまではあっても、それを相手に押し付けたらおしまいかと思う。
せめて、持論はあくまで「自分の持論」であり、それがその若手(の状況)に適用可能なのか、を当人と一緒に考えたらいいと思う。

だって、そもそも、個性違うんだから。
人格違うんだから。
風貌も違うんだから。
そう思えば、「自分の持論がその若手に適用可能なのか」
この問いだけだって、そもそもちゃんと考えたら、相当難しいはず。
今の自分とその若手の何が違うか、それを互いに考えたっていいんじゃないか。

そういったことを考えもせず、自分の経験や自分の持論だけ投げっぱなしてもね。

何も生まれないんじゃないだろか。

◆メンタリングと発達モデルの話

上記のような、自分の持論を伝えるだけの人のベースには、教員のスキルや能力が「右肩上がりに上がる」というイメージがあるんじゃないだろうか。
つまり、経験をすればするほど基本的に力は伸びる、と。
だからこそ、経験豊富な人の持論は、経験が短い人にとって「ありがたい」、という。

でも、そんなに単純ではない。

例えば、秋田(2006)は、教員の発達を「成長・熟達モデル」,「獲得・喪失両義性モデル」(+ほか2つ)の両方示している。

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秋田(2006) 教師の発達モデル(全体で4つあるが、あと2つは割愛)

単に成長熟達するだけでなく、獲得すれば喪失するものもあるんだというモデルも示されている。
後者によれば、経験豊かになって、失ったものもある、ということ。
「フレッシュさ」とか「熱さ」のようなものだけじゃなくね。
見えなくなったものもある、感じられなくなったものもある、ということ。
見えなくなった人の持論が、見える人の授業に適用しうるであろうか。

獲得した人の自論が獲得してない人に適用できる可能性はあっても
すでに失っている人の自論が、まだ失っていない人に適用できる可能性は高くないのではないだろうか。

そういう、[自分には失ったものがある]ことを自覚しているかどうか、は大事なんじゃないかな。。。

◆せめて。ね。

話がずれた。

実際のところ、メンターがメンティーに持論を示してやらせるようなことはよくあるだろうと思う。。。
そんな場合、せめて、せめて言えば、自分の経験や自分の持論をそのまま若手に適用したとしても、その結果については一緒に責任を持ってあげたらいいんじゃないかと思う。

別の観点を出して「これが出来てなかったから上手くいかなかったんだよ(=俺の持論自体は間違ってなかったけどね)」とかするんじゃなくて、むしろ、その別の観点が重要になることに事前に気づかなかった自分たち(若手と自分)の未熟さをともに嘆いたらいいんじゃないだろか。
その上手くいかない状態にある若者に何の工夫もなく自分の持論を適用させた自らの無力さに気づいた方がいいのかもしれない。

とか、思ったりもする。

 

じゃあ、どうすればそういうに関係なれんのって話はいろいろと思うことあるけど、とりあえず今日はこの点だけ。

以上

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