フィンランドの学校を視察して感じたこと : ちょうど1年前に。

もうずいぶん「書く書く詐欺」を続けてきたこのネタだが、一年がたちそうなので、さすがにまとめてみようと思う。

フィンランドに訪れたのは、2016年3月。ちょうど1年前。ヘルシンキ及びユバスキュラの数校に訪問した。

そこで印象に残ったことを書いておきたい。私は北欧の教育を専門とはしていないし、数校しか見ていないので、偏っている可能性もあるが、その時に自分が感じたこと、考えたことをそのまま書いておきたい。

1、【どのように学ぶか、を子どもたちに預ける】

まず、北欧の学校に行って最初に驚かされるのは、教室内にソファがあったり、ラグがあったりすることだと思う。

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廊下にもそれは溢れている。(↓左の方に写っているのは、いわゆる「人間をダメにするソファ」みたいなやつね)

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僕自身も初めて北欧に行った時(2年前)にめちゃめちゃ驚いた。当時は、単純にリラックスするためかなぁとか思っていたけれど、今回は同行した中田先生や坂田先生と話す中で、もう少し違う印象を持った。今回、「アクティブラーニングの促進」とか「アクティブラーナーの育成」というテーマをもって視察に行ったことも、背景にあるのかもしれないが、今回持った印象は「学びたい場所で学ぶ」ための環境を用意している、ということだ。主体的に学ぶうえでは、どのように学ぶか(例えば場所)も、出来うる限り各自に任されているのだと感じた。椅子に座って学ばないといけない、なんてことはない。ソファで学んでもいいし、床のラグの上でもいいし、時には、体育館のマットの上でも、教室の外の階段の踊り場でもいい。

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学ぶ場所は、その子自身が選んで決めればいいのだ。それがその子らしい学び方なのかもしれない。

さて、その「学ぶ場所」と同様、子どもたちに預けられているように感じたのは、「授業へのやる気」である。つまり「授業にどのくらい取り組むか」ということでさえ、子どもたちに預けられているように感じた(言い過ぎかな…)。

子ども達を見てみると、集中の度合いは(少なくとも見た目には)かなり差異がある。やる気なくぼーっとしてる子もいるし、友達とのオシャベリに夢中の子もいる。例えば、クラス全体としては「錯覚」に関するワークをやっている中であっても、ギネスの本を読んでいる子もいた(↓の写真)。

そのすべてのあり方が許されていたように思う。

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つまり、【どのように学ぶか】、という判断は子どもたちに預けられており、その中で許される選択肢としては、「適当にやる」「乗り気でない」というのも「アリ」とされているように感じた。

2、「信頼」とは

とすると、日本で育って日本で教員として働いてきた自分からすると気になるのは、やっぱり「勉強遅れちゃう子が出てきちゃうんじゃないの?」ということ。「やらない子にも「やれ」って言わないわけでしょ。そしたら、勉強全くしない子、出てきちゃうんじゃないの?」と。そのことが気になってしまい、ある場面で先生に直接その疑問をぶつけてみた。

答えはこうだった。私の懸念を否定したうえで、その先生は次のように言った。

「子どもたちの学ぶ力を信頼している」

この言葉を聞いて最初に思ったのは、「イヤイヤ、信頼してる言うて、学べてないやん」てこと。「それは信頼という名の放置やん」てこと(なぜか関西弁)。正直、そう思ってしまった。

でも、次の言葉でそれが勘違いだと分かった。

「誰にでも関心のもてる分野は必ずある。」

・・・なるほどね。すべての教科、すべてのタイミングで「やる気出てるよー」って姿勢を見せる必要はないわけだ。どこかの場面でやる気出てない子がいることを、まるで「学ぶことが出来ない子」がいるように捉えてしまったのは、完全に日本の考え方を前提にしているな、と。「関心・意欲・態度」としてモチベーションや学びに向かう姿勢を常に評価し続ける日本のやり方で言えば、その子は低い評価になる。

でも、「どこかの分野でしっかり関心を持って学べればいい」とするならば、別にやる気が出ていない一瞬があっても、まったく問題ではない。むしろ、「取り組み方を各自に任せる」とすると、それぞれの子のなかで分野によって関心にバラつきがあるのは、当然なわけだ。。。

3、【学びに火がつく】

さて、さっきも書いたように、一瞬一瞬で見ると「やる気ないな」を感じる子がいる一方で、逆に、集中している子は、ものすごーーく真剣に活動に取り組んでいた。どういう言い方をしたらいいかわからないけど、「学びに火がついた」感じ。

例えばこの子。

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この授業で取り扱っていたのは、光の屈折。特に、凸レンズを通すと光線が屈折して、焦点に集まるってやつね。それを体験出来るレーザー光を使ったキットがあったわけだけど、これに対する取り組み方が、すごかった。ズーッとレンズを動かしながら、色々とイジっていた。他の子にしゃべりかけられても、受け答えは上の空で、ズーーーーっと何かを試していた。レンズを前や後ろにやったり、斜めにしたり、凹レンズと組み合わせたり…。真剣な顔で取り組んでいた。(顔を見せられないのが残念)

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この子の学びの心には、確実に火がついていたと思う。

そういう場面は他にも。例えば、うえで書いた、「錯覚」に関する授業でも、ギューっと集中した様子で、本をいろんな角度から見たり、話したり近づけたり、色々試している子がいた。

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こういうタイミングがくることを、先生たちは待っているのかもしれないなと思う。つまり、その子その子なりにあらわれる【学びに火がつく瞬間】を待っているということ。

そして、「その瞬間は誰にでも来る。」「誰にでも、関心をもてる分野はある。」これを【信頼】と言っているのだという気がした。信頼しているからこそ、待つことができる、と。

一瞬一瞬だけ見て切り取ってしまうと、一部の子しか高い集中をしていないようにも見えるけれど、それぞれの子に異なる「火がつく瞬間」があり、そして、トータルで見ると、誰にでもその瞬間は訪れる。そして、それを信頼して、待っている。そういうことなのかもしれない。

4、主体的に学ぶ

これって、もしかしたら「学ぶ場所」や「学ぶ姿勢」を強制し、常に「適切な態度」を示すことを求めていたら、逆に出会いにくい瞬間なんじゃないだろうか。自由に選択できるからこそ、やる気起きないように見える瞬間も生じるけど、逆に、関心に引っかかった時の学びの爆発力もすごいのかもしれない。

あえてシンボリックに言えば、「やらない」という選択肢も与えられるからこそ「やる」という選択肢を主体的に選んだと言えるのかもしれない。

「やる」しか選択肢がない場合には、たとえそれを自分で選んだとしても、主体的に選んだとは言いづらいんじゃないだろか。

よく言う「主体的にやれ」と言ったら主体的でない、に近い。

子どもたちに、常に一定以上の「学ぶ姿勢や学ぶ場、学び方」を求めると、ヤラされ感が漂うのはご存じの通り。そういう状態に慣れてしまうと、こういう瞬間(学びに火がつく瞬間)がかえって訪れにくくなる可能性はあるだろう。一瞬一瞬ではそれなりにみんな学んでそうに見えるんだけど、「自ら選び取って学びに取り組む」という体験や、そしてなにより、【自分なりの学び方で何かを獲得することの喜びや興奮】からは、逆に、遠ざけてしまっている可能性もある。

そんなことを感じたり考えたりした。

5、教員の関わり

さてさて、↑にも書いたように、「やらない」という選択肢さえ許されている、と書くと、「教員は何もしない」かのように受け止められてしまうかもしれない。つまり、言いたいことだけ言って放置。あとは興味がある子だけ考えてね、みたいな。(実際、帰国してからこの視察の感想を話した時に、そういうコメントをもらうことがあった)。

でも、そういうことではない。

子どもの興味や関心を高めるための働きかけは、すごく丁寧に力を入れておこなわれている。つまり、ルールやしつけ、あるいは評価を通じて前を向かせようとするのではなく、授業の内容や教材、デザインで子どもたちを惹きつけようとしていたような感じ。

特に、「問い」のデザインは、すごく大事にしているんではないだろうか。例えば、先ほどの「学びに火がついた」子がいた、光の授業の「問い」は、下の図に表した感じ。

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つまり、どうすれば、平行な3本の光線を、1本の光線にまとめられるか、というような感じだったと思う。上の図でいう[?]にあてはまる凹レンズ・凸レンズの置き方を考えるというもの。・・・だった気がする。これを考えるために、あの子は、ズーーーッと真剣に考えていたのだ。

また、他の授業でも、モラルジレンマを扱かったり、歴史映画を作成したり、目の錯覚が起きるのはどんな時か、を考えたり。。。面白そうな問いが多かった(1年経って忘れてしまった…)。学び方を預けている以上、この問いの質によって、子どもたちの関心、学びのエネルギーには、相当な差異が出るんだろうし、だからこそ、「問い」にこだわるんであろう。

あともう一点は、子どもに対するアセスメント。ワークをやっているタイミングでは、適当に机の周りをまわってるように見えて、色々と先生たちは働きかけていた。現地語がわからないのでおそらくだけど、その言葉かけは「もっとチャンとやりなさい」とか、そういう感じではなさそうに見えた。

例えば、高校の英語。エッセイの授業。

机の周りをまわり、生徒の様子を見ながら、時々教師卓に戻って、いろんな資料を持ち出し、書画カメラで全体に見せていた。生徒たちの間で出ている話、生徒たちの様子に応じて、必要な資料を判断してピックアップして見せている感じだった。

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他の授業を見ても、なんとなく、こういったことは重視されていると感じた。つまり、「学び方を預けたうえで、興味関心を惹きつけるべく、問いをデザインし、アセスメントに基づいて即興的に関わる」。そんな風に感じることが多かった。

6、付随するポイント

以上のような点を感じたというのが、前回のフィンランド視察のポイントだけど、↑のような授業を展開するうえでの条件というか、付随して捉えなきゃいけないポイントはいくつかあるなと思う。ここではそれを書いておきたい。

(1)教員の力量の影響が大きい

うえで触れた授業は、特に、「うまくいっているな」と感じた授業である。で、実は、逆に「うーーん」と思ってしまったものもある。授業の質の差異(僕が思う質ではあるけれど)はかなり大きい感じがした。学び方を預けるからこそ、教員の力量の差がダイレクトに出るんだと思う。つまり、さっきも書いたような、「問い」をデザインする力や、アセスメントにもとづいて、即興的に関わる力。そういうものの影響がかなり大きいと思う。

その意味で、教員の力量形成はそうとう重要だと思う。
が、このエントリーで力量形成についてまで書くと、また倍くらいになっちゃうんでそれについてはまた別のエントリーで。

(2)就学前教育について

上にあげたような授業を受け、自ら獲得していく学びに取り組むうえでは、各子どもにもそれなりの素地が必要なんだろうと思う。就学前教育(というか、幼稚園?)から小学校にあがる段階で、一定の基準に達していないという理由で、それなりの割合の子が進級を1年遅らせたりしていると聞いた。僕が訪れた学校だけの仕組みか、一般的なのかはわからないけれど…ただそこでは、(日本でいう)年長さんを2回やるというようなことは、珍しくないようだった。

日本的な視点から言えば、「小学校前に留年?」とか思ってしまって、暗い印象を持ちがちだけど…でも、それは同年齢は同学年という前提を持ってみているだけで、そもそも初めからそれ(同年齢同学年)が念頭にないのなら、気にならないのかもしれない。

↑にも書いたように、フィンランドの教育には、「待つ」ことを大切にしているような文化、「待つ」ことが可能なおおらかさが溢れているので、そういう意味でも不自然ではないのかもしれない。

(3)社会全体のおおらかさ

これは完全に推測だけれど…

「待つ」とか「信頼」を大事にし、じっくりすすめることが許されるおおらかさは、学校だけで醸成されているとは考えにくいんじゃないだろうか。例えば、社会全体が馬車馬のように働いて、生き馬の目を抜くような競争にあけくれて、お互いに蹴落としあうような状況のなかだったら、学校だけがおおらかにできるということはないだろう。

ちょっと前にベーシックインカムも話題になったけど、国全体にある、社会への信頼みたいなものがベースにあるんじゃなかろうか。日本の社会の競争が激しいかはまぁいろんな味方あるでしょうが、少なくとも、●●したら負け組、とか、●●したら人生おしまいみたいな、そういう悲壮感は高いように思う。フィンランドの場合、そういう緊張感に満ちた空気は、学校に限らず薄いんではないだろうか(と、想像する)。

だからこそ、学校が「待つ」ことも出来る。大人が「待つ」ことができる。そんなような感じなんじゃないだろうか。

(4)日本にとって

(3)みたいなことを書くと、結局、「フィンランドの教育はフィンランドだからこそできるもので、日本には関係ない」みたいに見えてしまうかもしれない。国の規模やら、国が目指しているところもおそらく違うし、そういう意味では、学校の使命も違うだろうし。そして最も違うのはクラスサイズの大小かもしれない。
けれど、だからといって「アッチだからこそできて、コッチではできっこない」として、バッサリしてしまう必要もない。単純に、「何が学べるか」なんだろうと思う。

いろんなポイントはあるだろうけど、例えば、途中で書いたような「学び方を預ける」場面は日本でももう少しあっていいんじゃなかろか。特に、総合とか。調べ方も、その結果のまとめ方も、発表の仕方も、全部教えてその方法でやらせる場合が多いけれど(それが必要な場合もあることは重々承知だけど)もう少し、その取り組み方等は子どもたちに預けてもいいのかもしれない、と思う。

もっと単純な点で言えば、教室空間はもう少し自由にできるんじゃないだろうか。フィンランドほどにできるかどうかは別としても、「学びたい場所で学ぶ」を実現できるような工夫を【少し】やってみるとか、そういうことって大事かもしれないと思う。。。

というわけで、長々と書いてきたわけだけど、振り返ってみれば、このフィンランド視察はいろんなことを考える機会になった。

日本を離れて、日々の仕事を離れて考えるタイミングってのは大事だなと思う。

もっと細かいことで色々感じたことはあったけど、とりあえず今回はここまで。

来月にはまた北欧(スウェーデン)に行くんで、また色々刺激を受けられると思うと楽しみだ。

【参考】

●1、視察行く前のブログ
●2、「海外」カテゴリ

フィンランドの学校を視察して感じたこと : ちょうど1年前に。」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: フィンランドの学校を視察して感じたこと | テラニシノゾムの教育ポートフォーリオ

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