同じことしてた

先日(と言っても夏頃)ある教育学者の言葉が,2つの立場で全く違うように見えたことがあった.

ある有名な教育学者が,教育原理的な話をされていることがあった.
研究者集団の一員として聞きに行っていたので,頭の中は(今おもえば)研究者モードだったと思う.その時には,話していることの矛盾とか,強引な論の展開とかがどうしても気になってしまった.

でも,現場の先生でその教育学者の言葉を評価する人はとても多い.
なんでだろなーと思って,次にその人の話を聞く時に,中学校教員モードで聞いてみた.

結果,すごく勇気づけられたw
実践者として自分が大切にしたいと思っていながら出来ていなかったこと,そこに改めて気づかされて,これからもっと頑張りたいなという気持ちにさせられた.細かい論理展開とか,全然気にならなかった.
色々な不確実性や迷いがあったり,小さな矛盾を飲み込みながら日々を過ごしている状況においては,そんな細かい矛盾とかよりも,もっと「大きな図」や「太くて確かな軸」を感じさせてくれる方が大事なんじゃないかと思った.

思い返してみると,1回目も2回目も主な対象者は高校の教員だった.そこに勝手に別の立場から参加して,違うモードで聞いてしまったもんだから,なんだか上手くノレなかったんだと思う.おそらく,その方も研究者を主なターゲットした場では,違う話し方をするんだろうし,そこの場に自分が逆に実践者モードで参加したら,多分,「つまらない」と思ってしまうんじゃないだろか.

そして,よく考えてみると,自分が研究を使って教員の方に研修するときも,細かい精緻で正確な知見を語るというより,大きな絵を見せるイメージで一緒に考えた方が良いなと思っているし,その方がマナビにつながっている実感がある.

なんだー,同じことしてたんだな…

誤解してたごめんなさい.

そんなことを考えた2月初めの土曜日.

原稿頑張らねば.

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