月別アーカイブ: 1月 2019

教育行政と現場と研究者と

働き方も含めて様々な問題で考えてきたことだけど、僕は、教育行政は教育に関する大事なプレイヤーの一人(一つ)だと思うし、そこにいるのは「人」だと思っている。だから、何かズレがあれば対話してすり合わせてなんとか協力すべき相手だと思っている。

もちろん、権限の大きさに非対称性はあるし、逆側のコミュニケーション(行政→教員)をもっとどうにかすべきだという声はもっともだし、制度に関する認識のズレや不満も分かる。だけど、プレイヤーだと思っているからこそ、その「ズレ」をどうにかするには、教員→行政のコミュニケーションは、罵詈雑言を突きつけたり嘲笑するのではなく、対話していくべきだと感じている。

教育行政を悪者にしておけばとりあえず溜飲は下がるのかもしれないけれど、それは何も解決しない。SNSでそういうものを吐き捨ててそれが共有されて「ピース」とかして気持ちいいかもしれんけれど、対話の可能性はどんどん失われていく。ストレス解消にはなるが、解決はどんどん先延ばしになっている。

もちろん、そういうものも全て受け止めて、、、という大きな懐を持つことも行政には求められるかもしれんけど、そこにいるのは「人」だしね。どこまでも、というのは厳しい。「人と人として」「プレイヤーとプレイヤーとして」語り合えることを目指したい。

昔、指導教員の勝野先生から「町支さんはずっと同じこだわりを持っている」といっていただいて、それが何なのかわからなかったけど、この「行政と現場の対話の可能性」だったんだな、と今思う。そこに貢献したい、という気持ち。学校開発政策コースに入りたいと思ったのもそこがあったんだろうと思うし、文教交流会に魅力を感じたのもそこ。そして、行政と関わりながら現場に向き合う研究をしているのも、そこを結ぶ橋渡しになりたいという思いからなんだと思う。

つぶやき 問題化フェーズから解決支援フェーズへ

何かに苦しんでいる、しかもそれが知られておらず、苦しみ続けている人がいる。そういう物事を「問題化」するのは非常に重要なことだと思う。でも、その手法が、誰かを槍玉にあげて燃やすことで注目させる形だと、どっかでガタがくる。

圧倒的悪者が存在するならそれでいいんだけど、そうじゃなければ、結局、その苦しんできた人自身に副作用が生じたり、別の人が苦しみはじめて、苦しむ人がすり替わっただけだったりするんじゃないか。たとえ何かが変わったとしても、当事者の中では単に「社会の流れ」に負けただけだという意識がつよまって、より意固地になるんじゃないか。もしそのスポットライトを当てた問題だけがその業界の唯一の問題であるのならば、それも場合によってはありかもしれないけど、そんなことはないわけで。

最初は問題化するうえで飲み込まなきゃいけない部分もあるんだろうけど、そればっかり先鋭化させるのではなくて、どこかで当事者をエンパワメントしたり、解決のための後押しをする方にいかないと、自己解決できないし、自己解決能力が高まらない。

(繰り返しになるけど)そうしないと、たとえそのスポットライトを当てた問題自体は一時的に消えたとしても、根本的な問題は残ったままになるし、むしろ余計に硬直的になる気がする。

ちょっとボヤっと書いたけど、そんな気持ち。

つぶやき:少なくとも僕はそっちの立場、つまり、解決支援の立場で研究をしたい。問題化は必要だと思うけど。