教師の不祥事をどう見るか;専門性への信頼と引き受けられるリスクの大きさ

人と人のかかわりだから、どうなるかわからないけれど、その場の一瞬の判断で踏み込まないといけないこともある。そしてそれが失敗すれば責任をとらざるを得ないのがプロ。特に学校の場合は子どもも関わるから、責任を取ったぐらいでは許されないのが、教育のプロ。「不確実性」と一言で言えば他の業界と一緒だけれども、その振れ幅の大きさと予測可能性の低さと影響の大きさ・深刻さと、個人が取るべき責任の大きさはかなりでかいと思う。

業界単位で言えば、その覚悟もなく無頓着に踏み込むことが多すぎるから社会や世間から批判されて当たり前だと思うし、特に、個別の事例としては批判されて当然。親目線でみても、仕方ないではすましたくない。一方で、そういう内実も難しさもおそらく想像可能な立ち位置の方が、そういう失敗例をことさらに強調して、一面的な批判で全体の信用をおとしめるようなことをするのは、何を目指しているんだろうと思う。

その結末として想定されるのは、何も問題を起こさないところに業界としてラインを引くこと。規則で縛っていくこと。問題も起きないかわりに、学びも成長も制限されていくし、柔軟な対応もできない。教員に自由を許さないから、その先の子どもにも自由を許せず、強烈なコントロールをかけようとするんだと思う。スタンダードが良い例。

(なお、このことを言い訳に甘えるのも逆に違うと思う。)

結局のところ、専門家がどこまで信頼を得られるか、という話だと思うし、それに見合う力をもっているか、ということ。今、世間の見立てとしてはかなり低い。許される権限の大きさと、引き受けられるリスクの大きさは、大きく言えばセットなわけで。専門家として信頼されているからこそ、自由が許される、リスクのある判断も可能になる。信頼されなければ、即興的な判断よりも、事前のライン引きが優先される。

学びの質を高める専門家でありながら、子どもを守る専門家でもある。つくづく難しい仕事だと思う。自分自身について言えば、そこから逃げずに覚悟をもって働く人が、より専門家として力量を高められる手伝いをしたいし、自分自身も逃げずにその責任とリスクを引き受けながら教師教育を行いたいと思うし、同時に、その専門性が社会から認められるように働きかけたいとも思う。少なくとも、逆側に立って必要以上に断絶を強調するようなことはしたくない。

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