月別アーカイブ: 12月 2019

分からないからこそ考える そしてそこには信頼がある

ある授業での、ある先生(A)の一言について、同僚の先生(B)が言ってた言葉。

「あの先生(A)が言ってること、(そこにいる人たちに)全然伝わってなかったでしょ」

この言葉に少し引っ掛かった。なぜなら、僕自身はその先生(A)の授業中の言葉に体がビクんと反応したからだ。むしろ、

「あ、いまあの先生(A)、すごく大事なこと言ってる」

感覚的にそんな気がしたから。僕も、その先生(A)が何を言いたいのかはその場ではわからなかった。でも、体がその先生(A)のその言葉を「受け止めたい」と反応した。

実際、その言葉を三日間くらい反芻した。気になって本も読んだ。その先生(A)にメールもした。大いに学びのきっかけになった。

わからないからこそ考えたんだと思う。

わからないからこそ考える。

この姿勢を身に付けたきっかけは、やはり研究だと思う。考えて、考えて、考える。

これが他者(というか院生)にとっても意味あることなんだと気づかせてくれたのが、今年のオランダ視察。

ずーっと考え続けている院生がそばにいて話しかけ続けてくれたこと。

そのことが自分自身にもたくさん考えるきっかけを与えてくれたこと。

僕自身がある言葉について考え続けていたことが、別の院生さんに考えるきっかけを与えたこと。そしてそれ自体をその院生さんが場に共有してくれたこと。

そういう言葉がいまの自分につながっていると思う。

冒頭の言葉に戻る。

なぜその先生(B)との認識にズレが生じたか。

その先生(B)も、とても敏感で、考えることに価値をおいている先生だと思う。

でも、この場(教職大学院)が、考え続けることに価値をおいていい場なのか、それを表明していい場なのか、についての感覚には差があるかもしれない。

僕自身、いつも考えるきっかけをくれるその先生(A)に会ってなかったら、オランダに行ってなかったら、外に出していいと思えてないかもしれない。

「外に出していい」のベースは信頼だと思う。

わからないことや、わからないことを考え続けていることを、表に出していいんだという、互いの信頼。

それを得られていたり、折に触れて、見せあえていることが、大事なのかもしれない。

そんなことを考えた木曜日。

 

※なお、「分かりやすい」ことに意味がないとは全く思ってません。むしろ、すごく大事なこと。分かりやすいからこそうごく、しこうする、も多分にある。そこを二項対立に捉えたらもったいない。