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専門家は専門家であるからこそ沈黙する 〜足して9.0の問題を通して

足して9.0になる問題の採点が話題になっている。
これについて、僕は「いろんな考えが出せる空気だといいな」と思っている。

多くの否定系(両方○だろ)の方が、「こんなん議論の余地もない」、「小学校教員はアホだ」、「虐待だ」と言っている()。こういう「勢いのある声」が大勢を占めることで、言ってる本人は満足だろうが、私は、それでこの問題は前向きな方向にすすむのだろうか、と危惧している。

この問題は、有効数字の話やら、「こたえはひとつ」って感覚の話やら、いろいろと視点はあり得る。
肯定派につながりうる(と僕が思う)のは、「どの段階(年齢)でどんなことを学ぶべきか」っていうことに配慮するようなカリキュラム論とか、認知科学の知見のような気がするけれど、そういった専門家からは特に声があがってない気がする。

これは、そもそも僕の認識が違う(↑これらの分野はこの問題に出せる知見はない)のか、それとも、口をつぐんでいるかのどちらかではないだろうか。
前者であれば特に問題はないんだけれど、後者の可能性もけっこうあるんじゃないだろうか。

ちょっと考えてみると、そもそもこういう社会的に議論が沸騰した(炎上系の)話題になると、専門家が口を出しづらくなると思う。
なぜなら、専門家であるということは、その領域を生業にしているからである。
評価を落とせば、メシを食えなくなる。

もちろん、学会等での評価と世間の評価は直接リンクはしないし、主に学会(というか研究者間)の評価で職は決まるわけだけれど、研究者余り過ぎの近年において後者のイメージが悪い人をあえて採用しようとはしないんじゃなかろうか。

世間の評価を高めることで、のし上がっていく人もいなくはない。
社会学系にはいそう。
話題性を背景に採用されるとか。
そんなこともなくはない。

が、実際、それはけっこう難しい。
学会で、(それなりに話のわかる)研究者間で議論することは特に問題ないだろうが、どの方向から矢が飛んでくるかわからない、前提も経験もそれぞれ異なる、そして、圧倒的な量の圧力と、罵声の勢いの中で議論するのは怖いし難しい。相当なスキルを必要とする。
何よりも、時間とエネルギーが搾り取られる(経験あり)。

特に、全体的な方向性がかなり一方向に傾いているなかで、それと異なる視点や意見をだすのは、かなりハードルが高い。
そこに発言すれば、瞬く間にツブされるか「何言ってんだアイツ」となるし、議論も成立せず、ただ疲弊するということがよくある。
研究者間でも「あー、あの人、やっちゃったね。黙ってればいいのに。」的な視線を向けられることもあるだろう。
「アイツが発言したせいで、同じ領域の俺らまで巻き込まれたじゃねーか」 という批判もあるだろう。

そういう人は、やっぱり、採用等では避けられてしまうのではないだろうか。

だからこそ、専門家は口をつぐむ。

そういう意味で、どうしたら様々な意見がでうるのだろうか、と思う。

沈黙を金とする日本人の美徳というか、(逆に言うと)発言することへの恐怖感みたいなものもあるだろうし、それへの批判も考えられる。つまり、「言わない奴が悪い」、と。
とはいえ、会議とかそういった場での沈黙を批判することと、こういう荒波の中での沈黙を批判することはそもそも違うんでないかな、と思うし、一方で、何らかの意見をいう時、激しい言葉を使えば使うほど、議論が成り立たないことになるのは、会議もネット上も同じだろうな、と。
むしろ、不特定多数を相手にし、大きなうねりが生まれうる後者であれば、それは尚更ではないだろうか。

そういう事に気をつけないと、いろんな意見が出たり、新たな気づきを得られるような議論にはならないだろうな。

ま、そんな気をつかった言い方じゃ、ネット上のウネりの中では埋もれていってしまうんだろう、という事もわかりつつね。

自分自身は、きをつけていきたい。

あんまり極端な言葉を使わないとかね。。。

以上。

家訓

舐めてかかって、真剣に。
敏感かつ、図太く。
空気を感じて、空気を読まない。

変わることへの不安

物事を変えたり、状況が変わることについては、漠然と不安を感じる人は多く、そういう不安ゆえに変化を拒む人は少なくない。

『改革者』にとってはそれが不都合であったりもする。

それでも、変わることに対して不安を感じる人に「思考停止だ」とか「古いんだよ」とか言い捨ててもうまくいきそうにはない。

そんな事を言っても当事者の理解が増すことは絶対にありえないし、反発が増す可能性が高まるばかりだからだ。

そういうことを言う人は、きっと物事を前に進めていきたいと思っているわけではなく、『改革しよう』と言うことそのものを目的にしているか、『改革者』という立場を確保したいんだろうな、と思ったりする。

色んな不安を一つ一つ払拭しながら、粘りながら、それでも一歩一歩前に進めていく必要があるんだと思うけど。

それをする時間がないとしても、不安を感じている当事者に唾を吐くのではなく、少なくとも不安と向き合う姿勢を見せることが必要ではなかろうか。

甲子園の「女子マネ制止→男女差別」は、もしかしたら誤解かもしれない

各所で話題になってるこの話。
「甲子園」や「高野連」はだいぶ斜めに見られているなーと感じる。

「高野連は古臭くて、頭固い」

確かに高野連自身のこれまでの諸々がそういうイメージを作ってきた歴史があるからそうなるわけで、仕方ない部分もある。。。

ただ、いろいろ考えてみたり、見てみたら、誤解があるように僕には感じられた。
さすがに「女子には甲子園の土は踏ませねぇ」みたいなんは、やらないんじゃないかなぁ・・・(誤解じゃなく本気でやってたら涙目ですが。)
誤解だとしたら、誤解は誤解としてきちんと整理した方がいいんじゃないかと僕は思う。
いや、そこまでは行かなくとも「誤解が生じた可能性」を考えるくらいはしておいてもいいんじゃないかと思う。あくまで可能性だけどね。僕はどっちかというとその可能性が高いと思う。

【女子は甲子園のグランド踏ませない】が誤解である可能性

以下、↑について幾つかのポイントを挙げていこうと思いますが、そもそも今回の話で話題に出た規定の部分を挙げておきます(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160802-00000075-sph-base

——–

◆「代表校・応援団の手引き」

4・試合の注意事項

(6)練習補助員・ボールボーイ 守備練習には練習補助員(男子部員に限る)が5人まで参加できます。補助員はトレーニングシューズとし、ノックは受けないでください。ノッカーと補助員がグラウンドに入れるのは、この時だけです。終わったらすぐに退場してください。補助員が記録員を兼ねることもできます。また、補助員の中から試合中のボールボーイを両校各3人出してください。

(7)記録員 1人がベンチ入りできます。所属連盟に登録された部員で、当該校の生徒であれば男女は問いません。また、試合ごとの変更も可能です。試合前の練習や試合中にグラウンドに出てはいけません。
——–

これを踏まえて幾つかのポイントを。

◆ポイント①◆

少なくとも規定を見て言えるのは、女子記録員(いわゆる女子マネ)がグラウンドに入れないのは、「女子だから」じゃなく、「記録員だから」であるということ。記録員は、本来、男女に限らずグラウンドに入れない。

話がややこしくなるのは、「補助員が記録員を兼ねることもできます」と「練習補助員(男子部員に限る)」の部分があるからだと思う。つまり、結果的に、男子記録員は補助員を兼ねられるから、グラウンドに入れる。ということ。女子はそれができない。結果的に、同じ記録員という立場なのに、男子記録員はグラウンドに入れて女子記録員はグラウンドに入れない。そこだけを見ると女子排除に見えるのではないだろうか。また、実際のグランドレベルで見ると、女子記録員以外に女子はいないわけで、この規定を適用したことがその場では「女子排除」に見えたということなんじゃなかろか。

ただ、あくまで、グラウンドに入れる入れないのラインは男女の間にひかれているのではなく、<プレイヤー&補助員>と<記録員>の間にひかれている。少なくとも「女子はか弱くて危ないからグラウンドに入ってはいけない」という話ではない。

 

◆ポイント②◆

上記のような差異が結果的に生まれるのは、補助員が男子限定であることが大きな要素。これは「危険防止」が理由との話があり、どこのサイトでもそれが公式見解のように示されている(例えばhttp://this.kiji.is/133165193829844470?c=51548125355900932。発端は最初のニュースと思われるhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160802-00000032-dal-base)。

ただし、そうではないと高野連は否定している(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160802-00010005-bfj-base)との報もある。

とすると、考えられる理由(推測)は、『甲子園は男子の大会』であるということ。選手とともに試合前練習でプレーする補助員は選手に準じて男子限定ということではないだろうか。
これ自体は、男女別の大会である(女子の全国大会は別にある)という理由であって、他のスポーツと同様だろう。そもそも混成アリの野球大会にした方が良いという意見もあり、それは検討次第だと思うが、現状男子の大会であるというのは、男女差別のためではないだろう。

◆ポイント③◆

「危険防止」という話が出た背景は分からないが、少なくとも「グラウンドに入れない」と規定されているのは「女子」ではなく「記録員」なので、「記録員がグラウンドに入るのは危ない」という話ではないだろか。「女子はか弱いから入れない」という理由づけは、「女子はダメ」という形で規定されていない以上、そもそもあまり考えられない理由なのでは。

最初の記事が書かれる場にいた人が「記録員は危険だから入れない。ただ、男子記録員は補助員とかねてる場合入れるけど、女子記録員はそのルートがないから入れない。」をまるっとまとめて「危険だから」と表現したのかもしれないし、そこにいた人がそう言った、というだけの話かもしれないし記者がそうまとめたのかもしれないし。。。実際のところは知りませんが。

ただ、規定見ると「女子はか弱いから入れない」ではないかなと。

◆ポイント④◆

いやいや、そんなこと言ったって、本当の目的は【女子はグランド踏ませない】でしょ。という突っ込みもある。
でも、わざわざそのためにこんな回りくどいことするかな・・・というのが正直な感想。

部長として女性が入ることは40年も前からあるし、記録員として女子部員が加われるようになったのは20年ほど前。10年くらい前から助監督として女子部員がユニフォームを着てベンチに入る事例が出てきたり、数年前から行進にも女子部員が加われるようになったという流れ(地方大会に限られている可能性あり)。
助監督は(監督含めて)試合中はグラウンドに入れないけれど、練習は多分問題なくグラウンドに入れると思うし、試合・練習中ではないけれど、行進中は普通にグラウンド入ると思うのよね。

そういう事を見ても、相撲でいう土俵のように(という表現をして批判している人がいるからあえて言うけど)女子にグラウンド入らせねぇ。みたいな発想はないんじゃないか、という気がする。

もちろん、高野連の中にそういう発想の人が全くいないという事は逆に言い切れないけれど、表に見えている事から判断するに、女人禁制、グラウンドには触れさせねぇ、というよりは、「男子の大会だから」という単純な理由の方が近い気がするんだよなぁ。

 

◆ポイント⑤◆

今回のような事が起きないようにするためには・・・
A練習補助員をプレーヤーに準ずる形にしない。つまり、男子限定を外す。
あるいは、
B大会前練習を試合前練習に準ずる形にしない。つまり、よりフリーにやって良いとする。
というあたりかなと思う。

以下それぞれについて

A:練習補助員の立場は、今回大会前練習が話題になったけれど、本来は試合前のシートノック等に加わるということ。試合前のシートノックは、テレビとか見てると挨拶からしか映らないからイメージしづらいと思うけれど、シートノックは時間もきちんと規定、計測されていて、試合と一連の流れで行なわれている。試合が始まる前の前哨でプレーの一部のようにも見え、プレーヤーに準ずる形にするのは不自然ではない。

B:大会前練習はもっとフリーにやらせてもいいとも思う。ただ、大事なのは甲子園は別に高野連が所持している球場ではないということ。入れる人員を限定しないことになった時、大会前練習を経てグラウンドがどういう状態になるか(例えば保護者が砂を持って帰る)は、懸念する部分もあり、何らかのラインは必要かもしれない。現状、試合前練習に準ずるという形にしてあるが、これ自体はまったく不自然ではない。大会前練習のためにあらたにラインを作ったりすることはかえって煩雑さをもたらす可能性もあり、それがないことは少なくとも不自然ではない。

今回のようなケースに配慮したり、普段の練習では女子も加わっていることを考えると、ABはいずれもどうにかしてもいいかもしれないと思う。それをしないのはやっぱり頭が硬いのかもしれないし、柔軟性がないのかもしれない。

ただしつこいけれど、少なくともそれをやってないからと言って男女差別の誹りを受けるべき類の話とは思わない・・・


 

以上、つらつらと書いてきました。
長いっすね。汗
やっぱり、僕には、誤解のように見えるけどなぁ。。。
(ま、基本的に推測なんでわかりませんけどね。)

とも思ったけど、もう流れ始めた勢いは止められないから、誤解が発端だとしても、色々受け止めざるを得ないかもね・・・こういう形の、「世論が一気に流れて全て丸めて押し流してしまう…」みたいな事、どうにかならんのかなぁと思います。

一方で、男女混成とか、ポイント⑤のあたり、前向きな議論につながる可能性もありますよね。いずれにせよ、何が良いのか、これを機に議論が進むとしたら、それは良いことかなと思います。

そういう前向きな話が行われるためにも、「ぐじゃぐじゃにして押し流す。。。」が起きないように願いたいです。

加えて、今回の大会が、高野連批判を通じて何か言いたい人や大人に利用されることなく、あくまで、参加している高校生のための大会になると良いなと思います。

以上。

 

 

・・・と思ったけど、あと一個だけ。高野連批判ネタは、高校野球熱血ネタと同じくらい、「売れる」ネタなんじゃないかと思います。最初の記事が話題になったあと、幾つかの記事で後追い的に「規定」を載せ、そして、その掲載された「規定」も、記録員のところが載らなくなってきてるあたりも、色々と想像を働かせてしまいました←ここは妄想ですが。ただ、普段、リテラシーとか語りそうな層が、高野連批判ネタになると、直観的にそこに乗っかっているように見えるのは、ある意味面白いなとイヤらしく思ったりします。

ただ、最後に書いた「今回の大会が、高野連批判を通じて何か言いたい人や大人に利用されることなく、あくまで、参加している高校生のための大会になると良いな」というのは、ホントに思います。数年前のおにぎりネタもそうだし、http://blog.livedoor.jp/vitaminw/archives/53188895.htmlみたいなネタもそうなんだけれど、大人が甲子園をもとに面白おかしくストーリーを作ってグジャグジャにするのは肯定否定側どちらにおいても同じだなと思う。それはどうなんだろなと思う。これは僕も含めてだな。←いや、僕は沈静化を望んで書いたということにしよう。おしまい。

若者の投票率を上げるには、まず大人に訴えた方がいいかも :投票参加の期待効用モデルの紹介など

先日の非常勤先の授業で、政治教育を扱った。
18歳選挙権が開始され、かつ、受講者の殆どが18から20歳くらいということもあって、あえて政治教育を扱ってみた。

授業では、なぜ今政治教育が注目されるのか。政治的事象を扱う難しさや、政治的中立に関わる幾つかの事件・事象について話し、近年盛んな模擬投票なとの実践例を紹介した。
その中で、投票率の話をする際に紹介したのが、【投票参加の期待効用モデル】。

幾つかモデルはあるようだが、その中で、ライカーとオードシュックによるモデルを紹介した。Wikipediaにも載ってるし、多くの人が知ってるんじゃないかと思うけど、ここでも紹介しておきたい。

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Rがreward。その有権者の利得。これがプラスなら投票に行き、その逆なら棄権。

Pは、自分の投票行動が選挙結果に影響を与える確率(possibility)についての、有権者の認知。自分の一票の影響力をどう捉えているか、という話。
Bは、有権者にとっての政党間(候補者間)の期待効用差(benefit)。通ってほしい人が通った場合と通って欲しくない人が通った場合とで、どんぐらい違いがあるか。言い換えると、どんぐらい通ってほしい人がいるか、という話かな。
Dは、色々捉えはあるようだけど、義務感(duty)かな。つまり、有権者の責任として行くべき、というような感覚。
Cはコスト。めんどっちーかどうか。(参考;Wikipedia)

このモデルは納得感高い気がするなぁ。接戦とか、政権交代が話題になっていたりすると、Pが高く、強く選びたい党なり人なりがいれば、Bが高くなり、投票に行きたくなる。そういった状況とは別に、Dを大きく感じている人は投票に行く。と。

ま、それぞれの変数が独立とは言えないかもしんないけど、少なくとも整理には役立つ気がする。

さて、若者は、選挙に対して次のようなイメージを持っている(と言われている)。

・「自分が選挙に行っても行かなくても変わらない」とか、
・「違いがわからない」「誰がやっても一緒」とか。

これは、先ほどのモデルに合わせて考えると、前者がPの話で、後者がBの話であり、PやBが小さいということ。

ただ、これって本当かな?という疑問もわく。
というのも、こういう話がクローズアップされるのはだいたいテレビだったりするんだけど、テレビはこういう「わかんなーい」系の話を聞くときは、必ず渋谷でインタビューするんだよね。
(逆に、若者のしっかりした話を聞きたいときは、銀座の親子連れの子供の方に聞いたり。)

つまり、そういう「わかんなーい」系の若者像は、ある程度「つくられたもの」かもしれないという疑問は沸く。
本当に若者の傾向と言えるんだろうか。

・・・というわけで、このPBDCについての、年代別調査を見てみた。
2011年の参議院の時の調査かな。
手元に汚い画像しかなくて申し訳ないけど、

①P要因 自分の一票が選挙結果を左右すると思えた(下が若者。以下同)

20160705_144832

②B要因 自分の選挙区に、どうしても当選させたい候補者がいた

20160705_144843

③Bの逆転項目 候補者についてよくわからなかった

20160705_144852.jpg

④C要因 投票に行くのは面倒だった

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これらを見ると、見事に年代で差が出ており、前述のイメージ通りの結果になっていることがわかる。
確かに、若者は一定程度、そういう傾向にあるようだ。

(グラフの引用元は、『初めての政治学―ポリティカル・リテラシーを育てる』明治学院大学法学部政治学科)312ud7uwicl-_sx339_bo1204203200_

 

さて、政治教育の話に戻ります。

前述のモデルに絡めて言うと、これまでの政治教育はほとんどDにつながる話だけをしてきたんだと思う。民主主義の仕組みやら選挙の仕組みやら、仕組み系の話とかが話の中心。
というのも、旭丘中学校事件を始め、諸々の経緯を経て、具体的な政治的事象について触れることはむしろタブー化されてきた(この辺りは組合とか出てくる話で、話がややこしい)。
個々の政策、ニュースに出てくる政策などについては、時事問題等でその政策に関する基礎知識を扱うことはあっても、その政策について「どう思うか」といった事はやってこなかった。
繰り返しになるけど、仕組みの話が中心で、その最後に民主主義や選挙の意義(つまりDの話)に触れる程度。

が、この傾向が変わりつつある。

昨年来話題になっているのは、政治的事象を積極的に扱っていこうという話。18歳選挙権をきっかけに、これまでタブー視されてきた、具体的な政策の話とか、そういう辺りを扱って行こう、という流れが出始めている。これらは、PやBにガンガン関わる話だろう。
とは言っても、やはり、解禁していくか、抑制的になるべきか、という揺れがあり、現状はゴチャゴチャなんだと思う。特に公職選挙法に触れないように政治教育を行ったり、いかにして中立性を確保しながら扱うか、という部分は現場に大きな迷いが出ているという話。
昨年末だったかな、文科省が「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」という通知を出し、ひとまず整理を試みたという段階かな。実際に授業するうえで言えば、この通知によって「気をつけるべきこと、留意すべきこと」はわかるんだけど、ま、それだけで授業ができるはずもなく、難しい状況は変わらない、という感じだろうか。

そんな中で、政策比較表を作ったり、模擬選挙をしたりというような、多くの学校で行える、モデルになりそうな実践が広まり始めているのが、現状だろう。改めてもとのモデルに関わって言えば、ここに来てやっとPやBに関わる教育が広まり始めた、という状況。

偉そうな言い方になると嫌だけど、こういった実践のさらなる広がりに期待したい。

授業では、以上のような話をした。

ここからは、少し話が変わるけれど、若者の投票率向上に向けた呼びかけについても書きたいと思う。このところ、「若い人は選挙に行くべき」という語りと、「そんな事言っても自己満だ」といったような発言、ブログが色々なところで散見される。前述のモデルというか、P/B/Dという分類は、この話を整理するうえでも一つのヒントになる気がする。

これまでの「選挙に行こう」系の話は、Dに訴える系のものが多いように感じる。社会の一員として、みたいな。確かに、毎回必ず投票している人は、Dが高いんだろう。わからないけれど、「選挙に行こう」と若者に訴える人は、おそらく自分自身がこういった類の人であり、若い人にもそれを期待するんだろうな。

でも、もともと「行く気ないなー」って思っている人にそういう話は効果をもたらすんだろうか。なぜなら、Dに関わる話は、これまでも何度となく耳にしているだろうから。その結果として「行く気ない」に至っている人に、改めて、似たような話をして届く可能性はあるんだろうか。

有り得るとしたら、身近にいる信頼する、尊敬する大人に言われたら、もしかしたら影響するかもしれない。逆にいうと、SNSでちょっとしたコラムで訴えても、あるいは、それらのシェアやリツイートを通じて訴えても、なかなか届かないような気がする。

若者の投票率を上げようとする訴えは無駄だとは全く思わない。実際、僕自身、いろんなところで言ってる。中学校の授業でも、ずっと言ってきたし、中3の最後の授業では必ず言ってきた。選挙に行かない大人にはなるなって。今も、非常勤の授業でも言っている。
ただ、共通するのは、身近な、影響力を発揮しうる人に言っている、ということ。

そういう意味で、SNSで訴えるとしたら、若者に「選挙に行こう」と訴えるのではなく、大人に「身近な若者に選挙に行こうと呼びかけよう」と訴えることの方が良いかもしれない。

繰り返しになるけど、若者にとってみたら、「選挙の大切さの話」はこれまでも何度も聞かされているわけで。SNSを通じた薄い関係の人に似たような話をされても変わらないんじゃなかろか。それまでの「選挙の大切さの話」と変化が出るとしたら「誰が語るか」の違い。身近にいる、信頼できる、尊敬する大人から言われたら何か変わるかもしれない。

次に、D以外を推すタイプについて。

支持政党や政策に関する話こみで「選挙に行こう」を訴える人は、B重視かな。(例えば、)今回自民党が勝っちゃうと●●だから選挙に行こう、とか。ただ、これって、聞き手に政治に関するある程度の知識が必要かな、と思う。そこからコツコツやっていく必要がある気がする。時間かかるけど。

逆に、そういう基礎知識を培う段階をすっ飛ばして、ある党が政権を取ることの重要性を訴えたり、逆に、その恐ろしさを訴えて、「だから選挙に行かないと」と訴えるしたら、それは殆ど洗脳に近いんじゃないだろうか。

Pについても、B同様に、基礎知識が必要だし、時間をかけてやるべき取り組みだよなと思う。
もとの話に戻っちゃうけど、この辺り(PB)を高める事が、まさにこれからの政治教育に求められるところだろう。

というわけで、今回のブログは、モデルの紹介やら、政治教育の話、それから、モデルを参考に「若者よ選挙に行こう」運動について見てきた。
いつも通り、脈絡なく(笑)思いつくままに書いてきた感じで、読みづらかったと思います

色々書いてきましたが、要は、

・R=P×B+C のモデルはわかりやすいな
・若者の投票率向上は、若者に訴えるより、大人に訴えた方がいいんじゃないか

というあたりが今回書きたかったことかな。
しかしまぁ、考えても見れば、周りの大人に「選挙行け」ばっかり言われたらめんどくさくてしょうがないだろうなw

とか言いながら思ったけど、選挙に行くかどうかが、そういう事言ってくれる大人が周りにいるかどうかに拠るとしたら、つまり、自分の訴えが政治家に捕捉される可能性が、周りの大人次第で決まるわけで。
これってつまり、選挙を通じて格差が再生産されるような形になるんだね。

ま、今更言うまでもないか。

それからもう一つ思うのは、唯一、手っ取り早く投票率上げられるとしたら、Cを下げることのような気がするってこと。スマホで投票とかはいろいろと壁があるとしても、もー少し工夫はできるような気がするんけどな・・・駅で投票とか。
なんでやらんのだろ。外から見てるとわからない、単純にはわからない「壁」があるんだろな。
あるいは、若者の投票率が上がるとまずい理由があるとか。笑
その辺りわからないけどね。。。

あ、また長くなってしまいそう。
もうやめよう。
その辺はまたいつか。
尻切れとんぼみたいだけど、とりあえずおしまいにします。
ではさようなら。