カテゴリー別アーカイブ: 教員

お知らせが2つ [5/7 教師教育 ] [6/3 教員のキャリア(SL) ]

近日開催予定のお知らせが2つあります
・[5/7 教師教育の会 @桐朋小]
・[6/3 教員のキャリア,特にスクールリーダー(ミドル,管理職)についての会@NEE ]

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●[5/7 教師教育の会 @桐朋小]

5/7に,石川晋先生とともに,教員の成長と育成について語り合う会を開きます.場所は桐朋小学校です.

若手の先生との関わり方や,教員が力をつけられる学校のあり方などについて,一緒に考えませんか?
濱口恵美さん,つかはらかずおさん,山辺恵理子さん,関口潤さんらとご一緒します.是非,よろしくお願いします.

以下のフライヤーをクリックしていただいて,先生ポータルからも申込みいただけますし,メール workshop@reflect.or.jp でもお問い合わせ,お申込みいただけます(件名を【5/7 ワークショップ申し込み】と記載してください。)

教師教育

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●[6/3 教員のキャリア,特にスクールリーダー(ミドル,管理職)についての会@NEE ]

6/3に,New Education Expo にて,セミナーの講師をつとめます.

脇本さんや横国大の大内先生,横浜市教委の柳澤先生,木村さんとです.
これからはカリマネ含め教育経営の時代がくるなと思ってます(本気で).共同研究の調査報告を含め,スクールリーダーの職務や職能成長について考える時間にできたらと思います.よろしくお願いします.

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https://edu-expo.org/nee2017/index.php
※以下の順にクリックしていってください.
>東京会場
>タイムテーブルから
>6/3(土)の第7セクション15:40〜
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子どもが成長する学校のつくり方
~スクールリーダーの成長と育成に関する調査報告~
受講する
【コーディネータ】
横浜国立大学 教育学研究科 准教授 脇本 健弘
横浜国立大学 教育学研究科 教授 大内 美智子
横浜市教育委員会 教職員育成課 主任指導主事 柳澤 尚利
東京大学 大学総合教育研究センター 特任研究員 町支 大祐
立教大学 経営学部 リサーチアシスタント 木村 充

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後ろへ前へ。

近々、東大生のキャリアについての本が出る。
本の趣旨はちょっと忘れてしまったんだけど、とにかく、たくさんの東大生?元東大生?のキャリアを紹介するという本だった気がする。
今回、その内の一人として自分のキャリアについて紹介する機会をえた。
東大の経済学部を出て、中学校教員になって、大学院に戻ってきて、研究の世界で走り出したところ・・・みたいな話。

その中には、指導教員である勝野先生のコメントもあって。
勝野先生は僕のことを「ブレない人」と評してくれた。
その言葉が僕は頭にのこっていて、その時は結構(かなり)嬉しかったんだけど、それ以来、僕の中の何がいったいどう「ブレてない」んだろうと気になっている。

ちょうど最近、岩瀬先生の「根っこ」に関するブログを読んでいて、僕の根っこってなんだっけって思いがあったのにも関わる。
また、先月の中原研のACCで自分の個人研究(異動研究)の話をしていて、そもそもなんでこの研究をやっているんだっけ、ってなことを考えたのも、関係しているかも。

僕の中では、勝野先生の言葉とむしろ逆で、ちょっとここ数年、ブレッブレだなと思っていたりする。
任期のない職、やりたいことをやれる職を得ることに躍起になっていつつも実現しておらず、結果、たぶんこの2年で50くらいの公募に落ちたりして(ま、そりゃ当然だ)、だいぶ自分の心が散らかっている気がする。笑
何が目的で何が手段だったのか。
そのへんが散らかっている。

おっと、自虐っぽくなってしまった笑

とはいえ、別に悲観的になっているわけではなく、グダグダ漂流しつつも、意味のない時間はなかったなと思っている。
それに、2017年度に向けて、結構、楽しみに思っている。
業務がかなり「自分のやりたいこと」に近づいてきたイメージ。
心にボッと火がついていて、やったろー的な気持ちです。

そんな風におもう2017年3月30日14時32分。

グググと引き込まれる勉強会って。 : 「主権者教育と生徒会活動」の勉強会に参加して

土曜は、社会科に関わる民間勉強会に参加した。
テーマは「主権者教育と生徒会活動」。

▼ 主権者教育

会は、松下政経塾出身で湘南台高校のシチズンシップ教育などの実践で知られ、現在、神奈川県教委の「小・中学校における政治的教養を育む教育」検討会議で座長をつとめておられる西野偉彦先生の講演、それから、かつて私が勤めていた横浜市立中学校の先輩である北村明裕先生の、実践をもとにした講演、の二本立てであった。

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当日資料の一部

前半の西野先生の講演は、途中から加わったので全体を見ることはできなかったが、ドイツの学校会議の事例は非常に興味深かった。学校会議は、生徒代表と教員代表や外部委員等によって構成され、実際に校長の選出(承認だったかな?)に権限を持っている、とのことだった。
また、最後の質疑応答の時に少し話されていた「きれいな政治参加だけを見せる必要はない」といった言葉が非常に興味深かった。主権者教育はある意味、民主主義の理想を見せたいと思ってしまいがちだが、でも、実際の政治においては、政治に失望したり、しがらみが絡んだり、グジャグジャしている。そういったところも含めての「主権者教育」であり、「生徒会活動」のなかにはそういう要素もあってよい、という話が(おそらく西野さんのお話の主要な論点ではなかったかもしれないが)なんだか力強くてとても印象に残った。(参考リンク:西野先生のサイト

また、北村先生のお話は、私が実際に勤めていた中学校の実践について話されていたので懐かしさもありつつ、北村先生の実践に対する用意周到さ(?)というか、きめ細やかさを感じるものだった。3年間を見通して、子どもを育てつつ、学校も変えていく姿勢を久しぶりに感じられて、懐かしかった。すごく実践的で、たくさん参加されていた現場の先生方にとってすごく参考になるお話だっただろうと思う。

北村先生の話の中で、私自身にとって特に印象に残ったのは2点。
一つは、「あくまで主役は全校生徒だ」という話。そして生徒会は、それを醸成していくための「仲間」である、というところ。仲間として育て、一緒に関わる中で、結果的に一番育つのは生徒会役員であろうが、それでもあくまで主役は「全校生徒」であり、全校生徒に「自分で決めて、自分で変える」を体験させることがゴールである、と語られていたし、その目標を生徒会とも共有していた、と。確かにここを間違えると、単に生徒会にリーダー経験をさせるだけになってしまう可能性があるし、見るべきポイントがズレてしまうかもしれない。
もう一つは、フォロワーシップの話。私自身、フォロワーシップは重要だと思っている。生徒会だけが先走って色々と前に進めても、それが浮いて見えちゃったら話にならない。また、上の話と合わせて考えれば、全校生徒を主役にするには、生徒総会の場だけで完結する話ではないはずで。。。そのあたりを北村先生に質問してみたところ、北村先生の答えは、「草の根から民主主義を経験させる」ということであった。班長選びにしてもそう。「選ぶ-選ばれる、そこに権限と責任を生じさせる」という経験を草の根からやっていく。惰性でやるのではなく、丁寧にやる。そこから主権者教育は始まるんだ、という話だった(熱い!!!)。
学校全体が民主的でなければ民主的なクラスは作れない、という話がどっかであった気がするけれど、それと似た様な所があるかな。クラスのちょっとした一場面からして民主的じゃなければ、民主的な生徒会は行えない、という話かなと思う。このあたりが印象的だった。

▼ 今の世の中をどう捉えるか

さて、ここからはちょっと話は変わって、勉強会の2次会で感じたこと。

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ホッピーたくさん飲みました…

これまでも北村先生の「熱さ」「暑さ」にはいつも感化され(圧倒されw)てきたところがあるんだけど、「この熱さはどこから来るんだろう」と2次会のあいだ考えていた。で、その結果思ったこと。それは、出発点が「学校」ではなく「社会」だってことかもしれない。

昨日の飲み会でも所々で、「今の社会ってさ…」「子どもたちが生きていく社会ってさ…」という発言があった。そこがスタート地点なのだ。いつも、これからの社会に必要なこと、これからの子ども達に必要な力を自ら考えているし、そして、それが学校教育を通じて達成できると信じている。昨日の話で言えば、主権者教育はそういう北村先生の思いを実践に落とし込んだらたまたまそうなったという話で、出発点は、北村先生が今の世の中をどう捉えているか、というところにある。

一方、僕も含めて参加者は「主権者教育ってどうやるの」というところから考えてしまう。なんとなく必要そうだからやるわけで、かつ、それによって世の中がどうなるかなんて考えたりしない。本当によのなかに関係していくのか、さえ意識していない。もちろん、北村先生だって表立っては「世の中のために」なんて言わないけれど、いつもどこかそれが念頭にある気がする。
こういう勉強会に参加することはたまにあるけど、なんというか「ぐぐぐ」と引き込まれる時とそうでない時がある。その違いも、ここにあるのかも。○○教育や○○法のハウツーを教わるような会に出ても、なんとなく引き込まれないのは、そのあたりかもしれない。。。そういった意味で、昨日の勉強会はとても面白かった。

▼ 熱さの一端を…

そんなことを感じた夜だった。
自分自身、イベントを開催したりする時もあるわけで。
そう思うと、北村先生ほどの熱さを身にまとうことはないと思うけど(笑)、でも、自分自身の土台として「世の中とその実践との関係」については考えていきたいし、どこかそういうものを感じさせる人間でありたいなと思う。

以上

フィンランドの学校を視察して感じたこと : ちょうど1年前に。

もうずいぶん「書く書く詐欺」を続けてきたこのネタだが、一年がたちそうなので、さすがにまとめてみようと思う。

フィンランドに訪れたのは、2016年3月。ちょうど1年前。ヘルシンキ及びユバスキュラの数校に訪問した。

そこで印象に残ったことを書いておきたい。私は北欧の教育を専門とはしていないし、数校しか見ていないので、偏っている可能性もあるが、その時に自分が感じたこと、考えたことをそのまま書いておきたい。

1、【どのように学ぶか、を子どもたちに預ける】

まず、北欧の学校に行って最初に驚かされるのは、教室内にソファがあったり、ラグがあったりすることだと思う。

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廊下にもそれは溢れている。(↓左の方に写っているのは、いわゆる「人間をダメにするソファ」みたいなやつね)

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僕自身も初めて北欧に行った時(2年前)にめちゃめちゃ驚いた。当時は、単純にリラックスするためかなぁとか思っていたけれど、今回は同行した中田先生や坂田先生と話す中で、もう少し違う印象を持った。今回、「アクティブラーニングの促進」とか「アクティブラーナーの育成」というテーマをもって視察に行ったことも、背景にあるのかもしれないが、今回持った印象は「学びたい場所で学ぶ」ための環境を用意している、ということだ。主体的に学ぶうえでは、どのように学ぶか(例えば場所)も、出来うる限り各自に任されているのだと感じた。椅子に座って学ばないといけない、なんてことはない。ソファで学んでもいいし、床のラグの上でもいいし、時には、体育館のマットの上でも、教室の外の階段の踊り場でもいい。

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学ぶ場所は、その子自身が選んで決めればいいのだ。それがその子らしい学び方なのかもしれない。

さて、その「学ぶ場所」と同様、子どもたちに預けられているように感じたのは、「授業へのやる気」である。つまり「授業にどのくらい取り組むか」ということでさえ、子どもたちに預けられているように感じた(言い過ぎかな…)。

子ども達を見てみると、集中の度合いは(少なくとも見た目には)かなり差異がある。やる気なくぼーっとしてる子もいるし、友達とのオシャベリに夢中の子もいる。例えば、クラス全体としては「錯覚」に関するワークをやっている中であっても、ギネスの本を読んでいる子もいた(↓の写真)。

そのすべてのあり方が許されていたように思う。

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つまり、【どのように学ぶか】、という判断は子どもたちに預けられており、その中で許される選択肢としては、「適当にやる」「乗り気でない」というのも「アリ」とされているように感じた。

2、「信頼」とは

とすると、日本で育って日本で教員として働いてきた自分からすると気になるのは、やっぱり「勉強遅れちゃう子が出てきちゃうんじゃないの?」ということ。「やらない子にも「やれ」って言わないわけでしょ。そしたら、勉強全くしない子、出てきちゃうんじゃないの?」と。そのことが気になってしまい、ある場面で先生に直接その疑問をぶつけてみた。

答えはこうだった。私の懸念を否定したうえで、その先生は次のように言った。

「子どもたちの学ぶ力を信頼している」

この言葉を聞いて最初に思ったのは、「イヤイヤ、信頼してる言うて、学べてないやん」てこと。「それは信頼という名の放置やん」てこと(なぜか関西弁)。正直、そう思ってしまった。

でも、次の言葉でそれが勘違いだと分かった。

「誰にでも関心のもてる分野は必ずある。」

・・・なるほどね。すべての教科、すべてのタイミングで「やる気出てるよー」って姿勢を見せる必要はないわけだ。どこかの場面でやる気出てない子がいることを、まるで「学ぶことが出来ない子」がいるように捉えてしまったのは、完全に日本の考え方を前提にしているな、と。「関心・意欲・態度」としてモチベーションや学びに向かう姿勢を常に評価し続ける日本のやり方で言えば、その子は低い評価になる。

でも、「どこかの分野でしっかり関心を持って学べればいい」とするならば、別にやる気が出ていない一瞬があっても、まったく問題ではない。むしろ、「取り組み方を各自に任せる」とすると、それぞれの子のなかで分野によって関心にバラつきがあるのは、当然なわけだ。。。

3、【学びに火がつく】

さて、さっきも書いたように、一瞬一瞬で見ると「やる気ないな」を感じる子がいる一方で、逆に、集中している子は、ものすごーーく真剣に活動に取り組んでいた。どういう言い方をしたらいいかわからないけど、「学びに火がついた」感じ。

例えばこの子。

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この授業で取り扱っていたのは、光の屈折。特に、凸レンズを通すと光線が屈折して、焦点に集まるってやつね。それを体験出来るレーザー光を使ったキットがあったわけだけど、これに対する取り組み方が、すごかった。ズーッとレンズを動かしながら、色々とイジっていた。他の子にしゃべりかけられても、受け答えは上の空で、ズーーーーっと何かを試していた。レンズを前や後ろにやったり、斜めにしたり、凹レンズと組み合わせたり…。真剣な顔で取り組んでいた。(顔を見せられないのが残念)

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この子の学びの心には、確実に火がついていたと思う。

そういう場面は他にも。例えば、うえで書いた、「錯覚」に関する授業でも、ギューっと集中した様子で、本をいろんな角度から見たり、話したり近づけたり、色々試している子がいた。

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こういうタイミングがくることを、先生たちは待っているのかもしれないなと思う。つまり、その子その子なりにあらわれる【学びに火がつく瞬間】を待っているということ。

そして、「その瞬間は誰にでも来る。」「誰にでも、関心をもてる分野はある。」これを【信頼】と言っているのだという気がした。信頼しているからこそ、待つことができる、と。

一瞬一瞬だけ見て切り取ってしまうと、一部の子しか高い集中をしていないようにも見えるけれど、それぞれの子に異なる「火がつく瞬間」があり、そして、トータルで見ると、誰にでもその瞬間は訪れる。そして、それを信頼して、待っている。そういうことなのかもしれない。

4、主体的に学ぶ

これって、もしかしたら「学ぶ場所」や「学ぶ姿勢」を強制し、常に「適切な態度」を示すことを求めていたら、逆に出会いにくい瞬間なんじゃないだろうか。自由に選択できるからこそ、やる気起きないように見える瞬間も生じるけど、逆に、関心に引っかかった時の学びの爆発力もすごいのかもしれない。

あえてシンボリックに言えば、「やらない」という選択肢も与えられるからこそ「やる」という選択肢を主体的に選んだと言えるのかもしれない。

「やる」しか選択肢がない場合には、たとえそれを自分で選んだとしても、主体的に選んだとは言いづらいんじゃないだろか。

よく言う「主体的にやれ」と言ったら主体的でない、に近い。

子どもたちに、常に一定以上の「学ぶ姿勢や学ぶ場、学び方」を求めると、ヤラされ感が漂うのはご存じの通り。そういう状態に慣れてしまうと、こういう瞬間(学びに火がつく瞬間)がかえって訪れにくくなる可能性はあるだろう。一瞬一瞬ではそれなりにみんな学んでそうに見えるんだけど、「自ら選び取って学びに取り組む」という体験や、そしてなにより、【自分なりの学び方で何かを獲得することの喜びや興奮】からは、逆に、遠ざけてしまっている可能性もある。

そんなことを感じたり考えたりした。

5、教員の関わり

さてさて、↑にも書いたように、「やらない」という選択肢さえ許されている、と書くと、「教員は何もしない」かのように受け止められてしまうかもしれない。つまり、言いたいことだけ言って放置。あとは興味がある子だけ考えてね、みたいな。(実際、帰国してからこの視察の感想を話した時に、そういうコメントをもらうことがあった)。

でも、そういうことではない。

子どもの興味や関心を高めるための働きかけは、すごく丁寧に力を入れておこなわれている。つまり、ルールやしつけ、あるいは評価を通じて前を向かせようとするのではなく、授業の内容や教材、デザインで子どもたちを惹きつけようとしていたような感じ。

特に、「問い」のデザインは、すごく大事にしているんではないだろうか。例えば、先ほどの「学びに火がついた」子がいた、光の授業の「問い」は、下の図に表した感じ。

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つまり、どうすれば、平行な3本の光線を、1本の光線にまとめられるか、というような感じだったと思う。上の図でいう[?]にあてはまる凹レンズ・凸レンズの置き方を考えるというもの。・・・だった気がする。これを考えるために、あの子は、ズーーーッと真剣に考えていたのだ。

また、他の授業でも、モラルジレンマを扱かったり、歴史映画を作成したり、目の錯覚が起きるのはどんな時か、を考えたり。。。面白そうな問いが多かった(1年経って忘れてしまった…)。学び方を預けている以上、この問いの質によって、子どもたちの関心、学びのエネルギーには、相当な差異が出るんだろうし、だからこそ、「問い」にこだわるんであろう。

あともう一点は、子どもに対するアセスメント。ワークをやっているタイミングでは、適当に机の周りをまわってるように見えて、色々と先生たちは働きかけていた。現地語がわからないのでおそらくだけど、その言葉かけは「もっとチャンとやりなさい」とか、そういう感じではなさそうに見えた。

例えば、高校の英語。エッセイの授業。

机の周りをまわり、生徒の様子を見ながら、時々教師卓に戻って、いろんな資料を持ち出し、書画カメラで全体に見せていた。生徒たちの間で出ている話、生徒たちの様子に応じて、必要な資料を判断してピックアップして見せている感じだった。

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他の授業を見ても、なんとなく、こういったことは重視されていると感じた。つまり、「学び方を預けたうえで、興味関心を惹きつけるべく、問いをデザインし、アセスメントに基づいて即興的に関わる」。そんな風に感じることが多かった。

6、付随するポイント

以上のような点を感じたというのが、前回のフィンランド視察のポイントだけど、↑のような授業を展開するうえでの条件というか、付随して捉えなきゃいけないポイントはいくつかあるなと思う。ここではそれを書いておきたい。

(1)教員の力量の影響が大きい

うえで触れた授業は、特に、「うまくいっているな」と感じた授業である。で、実は、逆に「うーーん」と思ってしまったものもある。授業の質の差異(僕が思う質ではあるけれど)はかなり大きい感じがした。学び方を預けるからこそ、教員の力量の差がダイレクトに出るんだと思う。つまり、さっきも書いたような、「問い」をデザインする力や、アセスメントにもとづいて、即興的に関わる力。そういうものの影響がかなり大きいと思う。

その意味で、教員の力量形成はそうとう重要だと思う。
が、このエントリーで力量形成についてまで書くと、また倍くらいになっちゃうんでそれについてはまた別のエントリーで。

(2)就学前教育について

上にあげたような授業を受け、自ら獲得していく学びに取り組むうえでは、各子どもにもそれなりの素地が必要なんだろうと思う。就学前教育(というか、幼稚園?)から小学校にあがる段階で、一定の基準に達していないという理由で、それなりの割合の子が進級を1年遅らせたりしていると聞いた。僕が訪れた学校だけの仕組みか、一般的なのかはわからないけれど…ただそこでは、(日本でいう)年長さんを2回やるというようなことは、珍しくないようだった。

日本的な視点から言えば、「小学校前に留年?」とか思ってしまって、暗い印象を持ちがちだけど…でも、それは同年齢は同学年という前提を持ってみているだけで、そもそも初めからそれ(同年齢同学年)が念頭にないのなら、気にならないのかもしれない。

↑にも書いたように、フィンランドの教育には、「待つ」ことを大切にしているような文化、「待つ」ことが可能なおおらかさが溢れているので、そういう意味でも不自然ではないのかもしれない。

(3)社会全体のおおらかさ

これは完全に推測だけれど…

「待つ」とか「信頼」を大事にし、じっくりすすめることが許されるおおらかさは、学校だけで醸成されているとは考えにくいんじゃないだろうか。例えば、社会全体が馬車馬のように働いて、生き馬の目を抜くような競争にあけくれて、お互いに蹴落としあうような状況のなかだったら、学校だけがおおらかにできるということはないだろう。

ちょっと前にベーシックインカムも話題になったけど、国全体にある、社会への信頼みたいなものがベースにあるんじゃなかろうか。日本の社会の競争が激しいかはまぁいろんな味方あるでしょうが、少なくとも、●●したら負け組、とか、●●したら人生おしまいみたいな、そういう悲壮感は高いように思う。フィンランドの場合、そういう緊張感に満ちた空気は、学校に限らず薄いんではないだろうか(と、想像する)。

だからこそ、学校が「待つ」ことも出来る。大人が「待つ」ことができる。そんなような感じなんじゃないだろうか。

(4)日本にとって

(3)みたいなことを書くと、結局、「フィンランドの教育はフィンランドだからこそできるもので、日本には関係ない」みたいに見えてしまうかもしれない。国の規模やら、国が目指しているところもおそらく違うし、そういう意味では、学校の使命も違うだろうし。そして最も違うのはクラスサイズの大小かもしれない。
けれど、だからといって「アッチだからこそできて、コッチではできっこない」として、バッサリしてしまう必要もない。単純に、「何が学べるか」なんだろうと思う。

いろんなポイントはあるだろうけど、例えば、途中で書いたような「学び方を預ける」場面は日本でももう少しあっていいんじゃなかろか。特に、総合とか。調べ方も、その結果のまとめ方も、発表の仕方も、全部教えてその方法でやらせる場合が多いけれど(それが必要な場合もあることは重々承知だけど)もう少し、その取り組み方等は子どもたちに預けてもいいのかもしれない、と思う。

もっと単純な点で言えば、教室空間はもう少し自由にできるんじゃないだろうか。フィンランドほどにできるかどうかは別としても、「学びたい場所で学ぶ」を実現できるような工夫を【少し】やってみるとか、そういうことって大事かもしれないと思う。。。

というわけで、長々と書いてきたわけだけど、振り返ってみれば、このフィンランド視察はいろんなことを考える機会になった。

日本を離れて、日々の仕事を離れて考えるタイミングってのは大事だなと思う。

もっと細かいことで色々感じたことはあったけど、とりあえず今回はここまで。

来月にはまた北欧(スウェーデン)に行くんで、また色々刺激を受けられると思うと楽しみだ。

【参考】

●1、視察行く前のブログ
●2、「海外」カテゴリ

メンター方式についての誤解

◆メンター方式のイメージ

先日、こんな記事が出た。これに限らず「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について(答申)」に関しては様々な記事が出ており、大なり小なり、メンター方式に言及したものも多い。

それらの中には、メンター方式について「指導者と若手」の関係、というような形で表現しているものが散見される。
しかし、この書き方は、ちょっとなんか誤解を与えそうだな、と思う。
このように書かれた記事を見ると、メンタリング=経験豊かな先輩が後輩に何かを【伝授】すること、という印象を受けてしまうのではないだろうか。

また、大量採用に向かう前ぐらいの自治体、つまりベテランが大量にいてまだ若手が少ないような自治体の教委の方とメンター方式のお話をしたりすると、「ベテランの技を若手に【伝授】せねば」といったニュアンスの事をよく言われていたりする。
そこでイメージされているのも、経験豊かな先輩から後輩への一方向の伝授・伝達、という形のように思う。

それはそれで大事な点だとは思うけどね。
ただ、メンタリングは、そう単純じゃない(メンタリングの「ガチ」専門家では「ナイ」私が言いますが)。
その辺りを今回は書きたいと思う。

◆メンターのスタンス

メンタリングが上記のようなものと「異なる」点。
その最大のポイントは、メンターの姿勢というかマインドだと思う。
メンタリングについて書いた岩川(1994)によると、メンターに求められるのは「共同探求的なスタンス」である。

つまり、【一緒に学ぶ】という姿勢。

ここを忘れると、単なる指導者でしかないと思う。
これまでの初任者指導教員と変わらんと思う。
そうではなく、初任者の不安や悩みをベースにしつつ、初任者の自律性を活かしながら、【一緒に考えていく】ということ。

これが圧倒的に大事だと思う。

◆持論と自論

この違いを強調して言うとすれば、メンタリングは、メンターと若手が、新たな何かを生み出すってこと。
自分のそれまでの経験と持論だけじゃ分からなかった、何かを生み出すってこと。

そのためには、自分の持論をテーブルの上に乗せることまではあっても、それを相手に押し付けたらおしまいかと思う。
せめて、持論はあくまで「自分の持論」であり、それがその若手(の状況)に適用可能なのか、を当人と一緒に考えたらいいと思う。

だって、そもそも、個性違うんだから。
人格違うんだから。
風貌も違うんだから。
そう思えば、「自分の持論がその若手に適用可能なのか」
この問いだけだって、そもそもちゃんと考えたら、相当難しいはず。
今の自分とその若手の何が違うか、それを互いに考えたっていいんじゃないか。

そういったことを考えもせず、自分の経験や自分の持論だけ投げっぱなしてもね。

何も生まれないんじゃないだろか。

◆メンタリングと発達モデルの話

上記のような、自分の持論を伝えるだけの人のベースには、教員のスキルや能力が「右肩上がりに上がる」というイメージがあるんじゃないだろうか。
つまり、経験をすればするほど基本的に力は伸びる、と。
だからこそ、経験豊富な人の持論は、経験が短い人にとって「ありがたい」、という。

でも、そんなに単純ではない。

例えば、秋田(2006)は、教員の発達を「成長・熟達モデル」,「獲得・喪失両義性モデル」(+ほか2つ)の両方示している。

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秋田(2006) 教師の発達モデル(全体で4つあるが、あと2つは割愛)

単に成長熟達するだけでなく、獲得すれば喪失するものもあるんだというモデルも示されている。
後者によれば、経験豊かになって、失ったものもある、ということ。
「フレッシュさ」とか「熱さ」のようなものだけじゃなくね。
見えなくなったものもある、感じられなくなったものもある、ということ。
見えなくなった人の持論が、見える人の授業に適用しうるであろうか。

獲得した人の自論が獲得してない人に適用できる可能性はあっても
すでに失っている人の自論が、まだ失っていない人に適用できる可能性は高くないのではないだろうか。

そういう、[自分には失ったものがある]ことを自覚しているかどうか、は大事なんじゃないかな。。。

◆せめて。ね。

話がずれた。

実際のところ、メンターがメンティーに持論を示してやらせるようなことはよくあるだろうと思う。。。
そんな場合、せめて、せめて言えば、自分の経験や自分の持論をそのまま若手に適用したとしても、その結果については一緒に責任を持ってあげたらいいんじゃないかと思う。

別の観点を出して「これが出来てなかったから上手くいかなかったんだよ(=俺の持論自体は間違ってなかったけどね)」とかするんじゃなくて、むしろ、その別の観点が重要になることに事前に気づかなかった自分たち(若手と自分)の未熟さをともに嘆いたらいいんじゃないだろか。
その上手くいかない状態にある若者に何の工夫もなく自分の持論を適用させた自らの無力さに気づいた方がいいのかもしれない。

とか、思ったりもする。

 

じゃあ、どうすればそういうに関係なれんのって話はいろいろと思うことあるけど、とりあえず今日はこの点だけ。

以上