カテゴリー別アーカイブ: 教職大学院

分からないからこそ考える そしてそこには信頼がある

ある授業での、ある先生(A)の一言について、同僚の先生(B)が言ってた言葉。

「あの先生(A)が言ってること、(そこにいる人たちに)全然伝わってなかったでしょ」

この言葉に少し引っ掛かった。なぜなら、僕自身はその先生(A)の授業中の言葉に体がビクんと反応したからだ。むしろ、

「あ、いまあの先生(A)、すごく大事なこと言ってる」

感覚的にそんな気がしたから。僕も、その先生(A)が何を言いたいのかはその場ではわからなかった。でも、体がその先生(A)のその言葉を「受け止めたい」と反応した。

実際、その言葉を三日間くらい反芻した。気になって本も読んだ。その先生(A)にメールもした。大いに学びのきっかけになった。

わからないからこそ考えたんだと思う。

わからないからこそ考える。

この姿勢を身に付けたきっかけは、やはり研究だと思う。考えて、考えて、考える。

これが他者(というか院生)にとっても意味あることなんだと気づかせてくれたのが、今年のオランダ視察。

ずーっと考え続けている院生がそばにいて話しかけ続けてくれたこと。

そのことが自分自身にもたくさん考えるきっかけを与えてくれたこと。

僕自身がある言葉について考え続けていたことが、別の院生さんに考えるきっかけを与えたこと。そしてそれ自体をその院生さんが場に共有してくれたこと。

そういう言葉がいまの自分につながっていると思う。

冒頭の言葉に戻る。

なぜその先生(B)との認識にズレが生じたか。

その先生(B)も、とても敏感で、考えることに価値をおいている先生だと思う。

でも、この場(教職大学院)が、考え続けることに価値をおいていい場なのか、それを表明していい場なのか、についての感覚には差があるかもしれない。

僕自身、いつも考えるきっかけをくれるその先生(A)に会ってなかったら、オランダに行ってなかったら、外に出していいと思えてないかもしれない。

「外に出していい」のベースは信頼だと思う。

わからないことや、わからないことを考え続けていることを、表に出していいんだという、互いの信頼。

それを得られていたり、折に触れて、見せあえていることが、大事なのかもしれない。

そんなことを考えた木曜日。

 

※なお、「分かりやすい」ことに意味がないとは全く思ってません。むしろ、すごく大事なこと。分かりやすいからこそうごく、しこうする、も多分にある。そこを二項対立に捉えたらもったいない。

(行政)研修づくりが授業づくりと違うこと

●出会うまでどんな人が来るのか分からない

最大の違いはここにあると思う。

 

だからこそ,事前の想定を入念にする

だからこそ,出会ってからの関係づくりやチューニングに全力を尽くす

インストラクショナルデザインの解説をする

というお仕事

勉強になるなぁ

8つの問いを授業づくりの時点で使う

コルトハーヘンの8つの問いという有名な枠組みがある。

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※コルトハーヘン箸・武田ほか訳「教師教育学」2012/学文社(画像自身は関根さんのブログから拝借)

これ,基本的にはリフレクションの中でつかう想定なんだけど,

授業づくりの時点で,子どもの頭や心を想像してもらう意味で

使ってもいいのかも,なんてことを思いました。

 

以前の記事(GO)にも書いたけど,いろいろな授業を見にいっても,

授業の展開とそこでの論理的(?)つながりばかりで,

「それをすると子どもたちの頭の中や心の中がどうなるんだろう」

という想像が全然できてないように思うので。

 

とはいえ,改めて考えるとこれも結局入れ子で「考えなさい」と言って,

学生の頭の中で「考えてみよ」となるわけではないと思う。

リフレクションの場面から実感していくこと,そこからなのかなー。

まぁいろいろやってみよう。

あらためて8つの窓

ここのところ授業作りの相談を受けたりするけど,あらためて8つの窓の右側は大事だなと思う。

つまり,他者とか子どもとかに目を向けることと,感情や思考に目を向けるということ。

指導案つくったりするときに,展開や教員の行動ばかりを意識して,子どもの頭や心に関心が行ってないようにおもう。

まずはそこから。