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教育経営の時代 : 「カリマネ」をこえて

大きなタイトルをつけてしまった笑。
たぶん、夜、眠い状態で書いてるからだと思う笑。
これから数年間つきあうことになるかもしれない「カリマネ」ってものについて書いておきたい。
思ってることをダーーーっと書いとこうと思う。

カリマネ。
カリキュラムマネジメントの略。

カリキュラムマネジメントには三つの視点があるという。

=====
1、各教科等の教育内容を相互の関係で捉え、学校の教育目標を踏まえた教科横断的な視点で、その目標の達成に必要な教育の内容を組織的に配列していくこと。
2、教育内容の質の向上に向けて、子供たちの姿や地域の現状等に関する調査や各種データ等に基づき、教育課程を編成し、実施し、評価して改善を図る一連のPDCAサイクルを確立すること。
3、教育内容と、教育活動に必要な人的・物的資源等を、地域等の外部の資源も含めて活用しながら効果的に組み合わせること。
=====
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1364319.htm

「教科を越えて、学内外のリソースを活用しながら、教育課程について評価改善する」こと。

カリマネに対しては批判があるらしい。
現場への丸投げじゃないか、と。

ALやるけど、内容けずらないよ。
経験主義も系統主義もやるよ。
そこまで膨らましといて、絞るの、選ぶのは学校任せ。

確かにこれは丸投げと言われても仕方ないかもしれない。

でも、一方でこれを本当に実現できるなら、それはそれで悪くない。
文科省や誰かに押し付けられた「必要なこと」じゃなく、学校や教員自身が重要だと思うことに注力するということ。
それ自体は悪くない。

ただし、「出来るなら」
そういう意味では、結構、「賭け」なのかもしれないと思う。
(中教審や文科省がそう認識してるかはわからんけど)

その意味じゃ、正直言って、賭けに出るのは早すぎると思う。
改革なり、改訂なり、ここんところ詰め込みすぎだと思う。
理想論語りすぎだと思う。
普通にやれば、消化しきれない。

でも、じゃあ一方で、失敗したほうがいいかといえば、もちろんそんなことはない。
おそらく、この賭けに失敗したら、そこからもう一度一歩踏み出すには、もっと時間がかかりそう。

マナビのあり方(指導要領改訂・主体的対話的…)、その運営方針(カリマネ)、教員の力量(養成採用研修の改革)、これらを全て無にしかねない要素(多忙)の改善(働き方改革)、、、これらを一気に一体的に変えていこうという賭け。
今、賭けに出るべきなのか、という疑問は残らなくはないけれど、おそらくこれはもう、後戻りすることはないと思う。

だとしたら、僕はこの賭けにはノリたい。
僕は、なんとかして賭けがうまくいく方にかけたい。
この変革に対してプレーヤーとして関わりたい。
うまくいくべく後押ししたい。

ところで、実際のところ、カリマネって何なんだろうと思う。
カリキュラムの検討のために時間や会議を作ればうまくいくかといえばそうじゃないだろう。

そもそも、授業のことちっとも気にしない校長だったらこんなんできないし、他教科のことをどうでもいいと思うような教員集団なら「教科をこえて」なんてできっこない。
それに、どう考えたって、取捨選択するには教科間の軋轢なんかも避けて通れないわけで、組織としての意思決定のありかたが鍵になるのは間違いない。

つまり。

カリマネってのはカリキュラムの話に閉じられたもんじゃない。
結局、「組織としてどうなの」ってことが問われるんだと思う。
マナビや子どもたちの成長ってのを真ん中に据えて、組織が組織として意思決定して、機能していけるかって話だと思う。

「マナビを中心とした学校づくり」

これは、ちょっと前の話になるけど、「学校づくりゼミhttps://gakkoudukuri.wordpress.com/」とかでやろうとしていたこと。これが必要とされる時代がほんとにきたんだと思う。

まさに教育経営の時代がきたと思う。

これらを実現していくために、いくつかの鍵があると思う。

重要なのは、リソースや社会の支援・理解。
これはもちろんそう。

もう一つの大事な点は、トップの力。

学校はボトムアップが大事だと思う。
「私は黒子だから」的な校長も多い。
もちろんその通りだと思うけれど、一方で、「存在を消していい」わけではない。
表に立たなくても、ちゃんとマネジメントする人としない人がいる。
トップがマネジメントできるかどうか。
これは、今後さらに重要になると思う。

これまでも『校長が変われば学校が変わる』と言われてきた。
校長が大事という認識はこれまでもあったと思う。

でも、それは、いい校長がきてくれるかどうか、という、いわば当たり外れの話だった。
一方で、力量形成へのあきらめも表しているように思う。
結局、「できる人」と「できない人」は決まっていて、その「どっちが我が校にくるか」次第って話のようにも聞こえる。
つまり、「できない校長」が「できる校長」になっていくとは、想定されていないようにも思う。

僕はここんとこをどうにかしたいと思う。
校長の力量形成やその支援ってのは、もっとできるんじゃなかろうか。
専門職基準が出されたり、いろんな研修をやってらっしゃる先生はこれまでもいた。
その先生たちのことは本当に尊敬している(あの先生みたいになりたいと思ってきた先生もいる)。
僕自身、そこに新たな一歩を加えられるべく関わりたいと思う。
傍観してるよりはよっぽどまし。

前回のブログにも書いたけれど、「力量形成について調査して、それを生かして仕組みや研修そのものを作っていく」という形。
その校長バージョンをやっていきたい。
やっていきたいというか、やる。
というより、やることになっている。

マナビラボで。

ここんとこ、校長の力量形成について、横浜市の調査もあったし、国研の調査も行われたらしい。
これから、マナビラボでも調査を行っていく。

そういう知見をいかしつつ、校長研修や、校長の力量形成についての仕組みを考えていく。
30台の僕がやるのはおこがましいかもしれないけど、やっちゃう(笑)
やっちゃうやっちゃう。
やっちゃうぞー。

という宣言で終わりたいと思います(笑)
みなさまおやすみまさい。なさい。

自分のやりたいこと

自分のやりたいことを再確認したので,ここに書いておきたい.

===============

僕がやりたいのは,「仕組み作りから教員の力量形成を支援すること」である.

そのために,「①教員の力量形成とその要因・背景を分析すること」である.
その結果をもとに,「②政策提言」したり,「③研修開発」したりすることである.
研修に関して言えば,自分自身が「④講師をつとめる」ことも
そして,その政策や研修を「⑤評価」し,その「⑥効果を分析」し,「⑦改善を加える」ことである.

①⑤⑥は研究
②③⑦は研究者としての実践
④は実践者としての実践.

ただ,よく考えたら①→②③の関係と,⑤⑥→⑦の関係は同じ.
【調べて作る】
「⑤⑥→⑦」は,自分の作ったものについても検討するよ,という違いだけ.

より具体的に.
横浜メンターチームは①~⑦全部
川上先生との研究は,①→②③ ①中心
中田先生との研究は,①→③あたり.自治体単位でなく学校単位だけど.
中堂先生との研究は⑤⑥→⑦あたり.
レゴとかリフレクションとかは③④あたり.

教員養成課程で働きたいのも,この枠組みに乗るからだと思う.

部活動問題の難しさの一つ 

このところ、部活動問題が世間を賑わしている。
部活動を担う教員が長時間労働で大変だという話。
やったことない部活を担うことが大変だという話。
保護者も含めいろんな人の思いに対応するのが大変だという話。

で、「部活動は学校の教員がやるべきことなのか」という議論が起きている。
この問題についての自分のスタンスはあるんだけど、一旦それはわきに置いておきたい。

ここでは、部活動の問題がつらいことの背景(はいろいろあると思うんだけど)、そのうちの一つについて取り上げたい。

それは、

【部活動のやり方は誰も教えてくれない】

ということ。

ここでいう「やり方」とは、練習方法などではない。
練習方法とかは、実は、それ系の雑誌もあったり。
本屋に行けばいろいろ売ってる。
「強くする」ための方法は色々ある。

むしろ、もっとシビア。

例えば・・・

・練習日を減らしたいんだけど、どうやって、どのタイミングでそれを伝えることで、スムーズにそれが可能になるか
・逆に、増やしたい場合に、どうやって合意をとるか

勤務時間の話が話題になっているので↑の点を取り上げてみたけど、他には・・・

・部活動の子達(特に自分が顧問になる前からの子)の持ってる考え方が、自分のやりたい方向性と合わない。どう変革していくか。
・保護者の期待が過剰すぎる。どう対応するか。

などなど。
総じて言うなら・・・ 【自分らしく部活動をやる方法】 かな。
さらに色をつけて言うなら 【部活動を楽しむにはどうしたらいいか】 かな。

これは、誰も教えてくれない。

授業であれば、大学でも学ぶ。
教員になってから研修もあれば授業研究もある。

生徒指導や学級経営も難しいところだが、
例えば、同学年の先生など、運命共同体になっている人たちがいるから、
その人たちに関わる中で教えてもらったり、学べる機会はそこそこある。

でも、部活にはそういう関係がない。

とりあえずまず、行政研修にはそういう機会はない。

顧問会みたいな組織はある。
ただ、そこで出る話は「強くするには」が基本。
そもそも、顧問会で人間関係築くには「強くしたいんですけど・・・」というスタンスが必要かな。

校内の他の部の顧問とそういう話が出来るかというと、ちょっと難しいかも。
↑にあげたような学年の繋がりとか、そういう関係性のなかでちょうど似たようなスタンスだったり、考え方のスタンスがあう先輩がいると、聞けるチャンスがあるかもしれない。

しかし、総じて言えば、部活動の「やり方」について学べる機会は乏しい。

なぜそうなるか。

ここでは公的な研修が行いづらい理由について書くけど、
その理由の一つは、やはり、「部活動の位置づけが難しいから」だろう。

部活動は、教育課程外の活動である。
”教育課程との関連を図る”とは言われている。
実際、学校内には部活動関連の会議体があるし、勤務時間内にも部活動は行われている。
しかし、「独自の取り組み」という建前がある。

そんな曖昧な位置付け。
で、その位置付けの難しさの最たるものが、部活動自体には給料が出ないということ(ちょっとだけでるけど)

この曖昧な位置付けが、公的な研修を行いにくい理由だと思う。
つまり、研修の間の教員はどういう立場で行ってんのか、てこと。
普段の部活関連の勤務は教員としては行えないけど、部活動の研修は教員として行ける、てのも変な話だよね。

もう少し別の言い方をすると、職務専念義務を外す時間として扱えるの?ていう。
教員(含め、地方公務員全員)には職務専念義務がある。
勤務時間内は職場で職務に専念「しなければならない」。
その義務を外せるのは、諸々理由あるけど、関わるところでいうと、「校外研修」だけ。
その枠に含められんの?っていう。

もちろん、曖昧なラインで行われていることはたくさんある。
部活のために外に出るってのはね。

その一方で、【教委自身が】それをやったら、妙に公的なお墨付きを与えることにもなったりするのかもしれない。
「部活研修にお金支払われるなら、部活は公務だよね。普段の練習も勤務時間に数えてよね」
そこまでヤ●ザな言い方はないだろうけど、そういう論拠になりかねない。

そんなわけで「研修として手を出しにくい領域」なんだろうと思う。
部活動のガイドラインを作るとか、部活動問題の検討会をすることはあっても、部活動についての研修は行いにくいんだと思う。。。ま、たまにあるけどね。。。ほとんどない。

(先日、ある教委の方とのインフォーマルな場で↑みたいな話をたけど、だいたい認識はズレてなかったように思う)

今日は、部活動の難しさについて、「自分らしいやり方を学ぶ機会が少ない」という観点から書いてみた。
これを書いた背景にある思いは、「もっと学びの機会があればいいのにな」ということ。
そうすれば、もっと自分らしく教員生活を送れる人が増えるんじゃないだろうか…

最後に、部活の運営について学ぶ機会はほとんどない、て書いたけど、部活の運営について色んなヒントが得られる稀有な本を1冊ご紹介したい。

◆杉本直樹 著 『部活動指導スタートブック : 怒鳴らずチームを強くする組織づくり入門』 →amazonはこちらから
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内容は、すごく実践的だし、「自分らしく部活を運営する」ためのヒントがたくさんある。
書いてあるのは、「組織」とか「経営」とか「哲学」とか・・・部活の本としては珍しい。
例えば、ある章のタイトル、「自分自身の『部活動経営哲学』をもつ」。

副題にもある通り、基本的に「強くする」ことを目指すというスタンスではあるんだけど、「自分の考え方をもって自分らしく部活を運営するには・・・」という視点ですごく勉強になる本だと思う。

といったわけで、以上で終わりたいと思う。
途中にも書いたけど、僕自身は、部活についてもっと学びの機会があればいいのになと思う。

逆に、そういう学びを得ずに(求めずに?)、最初から「イヤだ!!つらい!!!」てなる人が増えるのは、僕としては悲しいと思う。

もう少し言っちゃうと、今の、部活が政治問題化して、単なるケンカの争点になっているような状態は、やりたい人にとっても、やりたくない人にとっても、なんだか悲しいなと思う。

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気がつけば、また長くなってしもーた・・・
長文にお付き合いしてくれてありがとうございました。

最後になりますが、杉本先生の本は、まじでおすすめっす。
やりたい人にも、やりたくない人にも勉強になる。
というか、部活以外のことにもすごく活かせると思う。

僕は杉本先生のtwitterもフォロしちょります。

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追伸

この記事では公的な研修について書いたけど、徐々に、民間のセミナーとかでも部活運営のことを取り上げるものが増えて欲しいと思います。。。また杉本先生の話になっちゃうけど、先生のtwitterではそういう活動についても紹介されてますのでおすすめです。

嘘とかデマとか

ここんとこ、海外の教育制度に関わる2つの記事が話題になっていた。

一つは、 フィンランド教育4つの嘘とホント

もう一つは 大御所・大前研一さんのデマ記事に全力で反論、訂正します

前者はタイトルからも分かる通り、フィンランドの教育に関するもの、後者はドイツの教育に関するもの。

どちらも、実際にフィンランドやドイツにいた人、いっていた人のブログのよう。

海外の教育ってさ、フィンランドもドイツも、そして、オランダやらアメリカやらも、結構、理想化して捉えちゃうとこあるよね。。。

理想的な教育が、そこには、ある。

みたいなね。

結果、実態以上に極端にとらえてしまう、というね。

わいも気をつけねーとにゃあ。

 

韓国入試事情の話を聞いて:ハイパーメリトクラシー、ペーパーテスト改革、自国史などなど

今日の非常勤@専修は、ゲスト講師の方をお呼びしての授業。
大学院同期のイさんに、韓国の教育事情について話してもらった。
そこで聞いた話と、感じた印象をここに記しておきたい。

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 一言一句、細かいニュアンスまでしっかり聞いたいたわけではないので、ゲストの方の印象なのか、エビデンスのある話なのか、僕自身掴みきれてない部分もある。一般論かどうか、あるいは、韓国の人たちの共通認識として良いのかどうかは迷う部分がある。

とはいえ、ひとまず、記しておきたい。

▼ハイパーメリトクラシーと推薦入試

 韓国では、ハイパーメリトクラシー重視の傾向がどんどん強くなり、推薦入試の割合がかなり高まっているらしい。トップ校(例えばソウル大学)でも半数以上は推薦。
 日本では、東大が最近初めて推薦を始めたという状況。程度にはかなり差があるものの、ペーパーテストで測れない部分を重視したいという意味では共通しているとも言える。

▼ペーパーテストの変化

 逆に、一般入試においても、ペーパーテスト入試の重みはどんどん下がっているとのこと。これには2つの見方ができそう。
 一つは、ハイパーメリトクラシー的なもの(内心・面接)の重視による相対的な低下。ペーパーテスト(全大学共通。大学修学能力試験)で問える学力の重みはどんどん低くなっているとのこと。結果、ペーパーテストは「基礎学力があるかどうか」に特化しており、問題が非常に簡単になっている。
 もう一つは公平化を目指したもの。これまで良く語られてきた通り、韓国では受験競争が過熱し、私教育費(塾代など)がかなり高まっていた。そのため、経済格差がそのまま教育格差につながるという傾向があった。そこで、2011年から、公平化を目的に、EBS(教育テレビ)の内容を試験の基準にすることになった。EBSは格安で誰でも見られるため、それが問題のもとになれば、あまり条件に差がつかないという発想。日本の教育テレビを見ていても分かる通り、それほど複雑な内容は扱われない。かつ、放送の内容そのままの問題も数多く出題されているのが現状のよう。結果、簡単すぎて、あまり差がつかなくなり、選抜におけるペーパーテストの重みが低くなった。
 前述した因果とは逆で、むしろ、ペーパーテストで差がつかなくなったことが原因で、ペーパーテスト以外の評価方法の重みが高まった、(例えば、推薦入試枠が増えた。内心の重視)との説もある。

 ちなみに、ペーパーテスト軽視とはいえ、その対策はやはり必要。満点を取り、他人と差がつかない成績を取れる程度の対策は求められる。難しい問題を解けるようになってプラス点を取り、差をつけようという発想ではなく、簡単な問題をミスらないようにして、マイナスを生まないという対策。

▼内申と格差

 一般入試の中でも重み付けが高まったのが、内申や面接。「リーダーシップ」などの評価項目があり、例えば、ボランティアをどれだけやったか、といったことが評価されるようになった。一部には、ボランティアをやったという記録を金でどうにかするということも出来るようになり、むしろ、経済状況による格差は広がったとの噂もある。。。ハイパーメリトクラシーがそもそも環境要因に左右されやすい、格差を固定化しやすいという批判はあったが、こういった裏ルートへのアプローチという意味でも機会の格差は大きいのかもしれない。

▼ペーパーテストの方向性に関する日韓の差

 日本では、高大接続改革等で、論理的思考力とか、アウトプットの力といったものをペーパーでも問うていきたいという方向性がある。(例えばセンター試験改革など)
 一方、韓国はそういった方向にはいかず、ペーパーテスト型入試にある意味見切りをつけて、割り切って、「基礎学力があるかどうか」に特化していると感じた。

▼自国史の必須化

 ここまでの流れとは異なるが、自国史の話。
 韓国では、韓国史が、大学修学能力試験の中で必須になるらしい。他の科目は何を受験するか選択できるが、韓国史は必ず受験しなければならなくなったとのこと。大学に行くためには、韓国史を学ばなければならない。今年から。
 日本では、日本史の近現代史が授業として必修化される予定。ただし、これはセンター試験等とは関係なく、授業の必修化。
 ナショナリズム重視の時代において、歴史認識で対立する両国が自国史をほぼ同時に必須化する、というのはなかなか興味深い。どちらも、もっと自国史を大切にしようという発想。日本にいるイメージでは、韓国では自国史を昔からものすごく徹底して教えているイメージがあるが、韓国内ではそういう評価ではなかったらしい(やはり、「若いもんは我が国の歴史も知らん。教育がなっとらんからじゃ」的な評価)。
 一方で、そのアプローチが、入試の枠組みを通じて、あるいは、授業の枠組みを通じて、という違いがあるのも面白い。日本だと、センター入試の方式を変えるのは世代間の差とか生みそうで慎重になるし、国が介入しにくそう。そのあたりガッとやっちゃうのは、韓国の強みでもあり、危うさでもあるような気がする。

 


 

 以上が、今日の話と、それを聴きながら感じたこと(混在してまーす)。
 欧米なり、日本と全く違う国について学ぶのも新たな発想に気づくので面白いけれど、東アジアの国を見ると、どこか地続きな感もあり、逆に、違いが際立って見える気がして面白い。

僕自身、すごく楽しく話を聞かせてもらった。

同期つながりに感謝!!!