カテゴリー別アーカイブ: 教育

非常勤が始まりました

今日から今年度の非常勤が始まりました。
専修大学での「教育学入門」です。

今年はなんとなく、去年より、ナナメに構えながら授業を考えていこうと思っています。
去年は、なんだか形を気にしすぎて、正面突破しようとしすぎました。
その反省をいかして、今年はナナメにいこうと思います。

さて、今日は第一回。

どえらい人数が多かった(2コマで650人)ので、サムイ感じでいこうと決意を固め、「調子にのってる町支です」から初めて、ペラペラとしゃべってきました。おサムいオヂサン的なキャラ設定をすることにより、履修人数を減らしていこうという作戦です。
これには、なんだか付随する効果があって、適当にしゃべればしゃべるほど、『ときどき見せる真面目さ』が際立つ気がしました。妙にエッジの効いた、メリハリのあるトークをしているような、なんだか、そんな気分でした(自画自賛)。

ちなみに、この人数なのでワークとかはヤリづらいところもあります。色々と試みたいとはおもいつつ、まだ形は見えてきてない、そんな感じです。

さて、その後、内田洋行@八丁堀で打ち合わせをして、本郷に行って、帰ってきましたとさ。

ほんで、さきほど、今日の授業について何か書かれてるかなと思ってエゴサーチしてみたところ、案の定、いくつか出てきました。
twitterには、「履修人数を減らすためにサムイギャグを連発しとる教授がいた」的な書き込みがあり、(教授ではないけど)もしかしたら僕かな〜と思ってたどってたら「ピコ太郎やりはじめた」とか書いてあったので自分だと確信しました。

ピコピコピコリーン。

スウェーデン

3月上旬にはスウェーデンに行ってきました。

幾つかの学校を見てきましたが、「おもしれーなー」と思った場面の写真、あげときます。

それぞれどんな風に気になったかはまたいずれ書きます。

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そんでもって、今回の視察のラストでは、ストックホルム大でTeacher Educationについてプレゼンをしてきました。

英語になっても、相変わらずろくろを回しておりました(↓左上)。

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今回の英語プレゼンでちょっと思ったのは、意外と「主語で迷う」ってこと。

内容はスライド見たらだいたいイメージできるんだけど、それを英語で話そうとした時、自然に主語が出てこなくて焦りました。

そのあたり、いつかまた英語プレゼンする時は気をつけたい。。。

今回の視察については、ストックホルム大でも記事にしてくださったようで、↓のような形になっていました。

http://www.su.se/lararutbildningar/l%C3%A4rarstudent/studera-utomlands/utbyte-med-teikyo-universitet-1.326601

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グググと引き込まれる勉強会って。 : 「主権者教育と生徒会活動」の勉強会に参加して

土曜は、社会科に関わる民間勉強会に参加した。
テーマは「主権者教育と生徒会活動」。

▼ 主権者教育

会は、松下政経塾出身で湘南台高校のシチズンシップ教育などの実践で知られ、現在、神奈川県教委の「小・中学校における政治的教養を育む教育」検討会議で座長をつとめておられる西野偉彦先生の講演、それから、かつて私が勤めていた横浜市立中学校の先輩である北村明裕先生の、実践をもとにした講演、の二本立てであった。

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当日資料の一部

前半の西野先生の講演は、途中から加わったので全体を見ることはできなかったが、ドイツの学校会議の事例は非常に興味深かった。学校会議は、生徒代表と教員代表や外部委員等によって構成され、実際に校長の選出(承認だったかな?)に権限を持っている、とのことだった。
また、最後の質疑応答の時に少し話されていた「きれいな政治参加だけを見せる必要はない」といった言葉が非常に興味深かった。主権者教育はある意味、民主主義の理想を見せたいと思ってしまいがちだが、でも、実際の政治においては、政治に失望したり、しがらみが絡んだり、グジャグジャしている。そういったところも含めての「主権者教育」であり、「生徒会活動」のなかにはそういう要素もあってよい、という話が(おそらく西野さんのお話の主要な論点ではなかったかもしれないが)なんだか力強くてとても印象に残った。(参考リンク:西野先生のサイト

また、北村先生のお話は、私が実際に勤めていた中学校の実践について話されていたので懐かしさもありつつ、北村先生の実践に対する用意周到さ(?)というか、きめ細やかさを感じるものだった。3年間を見通して、子どもを育てつつ、学校も変えていく姿勢を久しぶりに感じられて、懐かしかった。すごく実践的で、たくさん参加されていた現場の先生方にとってすごく参考になるお話だっただろうと思う。

北村先生の話の中で、私自身にとって特に印象に残ったのは2点。
一つは、「あくまで主役は全校生徒だ」という話。そして生徒会は、それを醸成していくための「仲間」である、というところ。仲間として育て、一緒に関わる中で、結果的に一番育つのは生徒会役員であろうが、それでもあくまで主役は「全校生徒」であり、全校生徒に「自分で決めて、自分で変える」を体験させることがゴールである、と語られていたし、その目標を生徒会とも共有していた、と。確かにここを間違えると、単に生徒会にリーダー経験をさせるだけになってしまう可能性があるし、見るべきポイントがズレてしまうかもしれない。
もう一つは、フォロワーシップの話。私自身、フォロワーシップは重要だと思っている。生徒会だけが先走って色々と前に進めても、それが浮いて見えちゃったら話にならない。また、上の話と合わせて考えれば、全校生徒を主役にするには、生徒総会の場だけで完結する話ではないはずで。。。そのあたりを北村先生に質問してみたところ、北村先生の答えは、「草の根から民主主義を経験させる」ということであった。班長選びにしてもそう。「選ぶ-選ばれる、そこに権限と責任を生じさせる」という経験を草の根からやっていく。惰性でやるのではなく、丁寧にやる。そこから主権者教育は始まるんだ、という話だった(熱い!!!)。
学校全体が民主的でなければ民主的なクラスは作れない、という話がどっかであった気がするけれど、それと似た様な所があるかな。クラスのちょっとした一場面からして民主的じゃなければ、民主的な生徒会は行えない、という話かなと思う。このあたりが印象的だった。

▼ 今の世の中をどう捉えるか

さて、ここからはちょっと話は変わって、勉強会の2次会で感じたこと。

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ホッピーたくさん飲みました…

これまでも北村先生の「熱さ」「暑さ」にはいつも感化され(圧倒されw)てきたところがあるんだけど、「この熱さはどこから来るんだろう」と2次会のあいだ考えていた。で、その結果思ったこと。それは、出発点が「学校」ではなく「社会」だってことかもしれない。

昨日の飲み会でも所々で、「今の社会ってさ…」「子どもたちが生きていく社会ってさ…」という発言があった。そこがスタート地点なのだ。いつも、これからの社会に必要なこと、これからの子ども達に必要な力を自ら考えているし、そして、それが学校教育を通じて達成できると信じている。昨日の話で言えば、主権者教育はそういう北村先生の思いを実践に落とし込んだらたまたまそうなったという話で、出発点は、北村先生が今の世の中をどう捉えているか、というところにある。

一方、僕も含めて参加者は「主権者教育ってどうやるの」というところから考えてしまう。なんとなく必要そうだからやるわけで、かつ、それによって世の中がどうなるかなんて考えたりしない。本当によのなかに関係していくのか、さえ意識していない。もちろん、北村先生だって表立っては「世の中のために」なんて言わないけれど、いつもどこかそれが念頭にある気がする。
こういう勉強会に参加することはたまにあるけど、なんというか「ぐぐぐ」と引き込まれる時とそうでない時がある。その違いも、ここにあるのかも。○○教育や○○法のハウツーを教わるような会に出ても、なんとなく引き込まれないのは、そのあたりかもしれない。。。そういった意味で、昨日の勉強会はとても面白かった。

▼ 熱さの一端を…

そんなことを感じた夜だった。
自分自身、イベントを開催したりする時もあるわけで。
そう思うと、北村先生ほどの熱さを身にまとうことはないと思うけど(笑)、でも、自分自身の土台として「世の中とその実践との関係」については考えていきたいし、どこかそういうものを感じさせる人間でありたいなと思う。

以上

フィンランドの学校を視察して感じたこと : ちょうど1年前に。

もうずいぶん「書く書く詐欺」を続けてきたこのネタだが、一年がたちそうなので、さすがにまとめてみようと思う。

フィンランドに訪れたのは、2016年3月。ちょうど1年前。ヘルシンキ及びユバスキュラの数校に訪問した。

そこで印象に残ったことを書いておきたい。私は北欧の教育を専門とはしていないし、数校しか見ていないので、偏っている可能性もあるが、その時に自分が感じたこと、考えたことをそのまま書いておきたい。

1、【どのように学ぶか、を子どもたちに預ける】

まず、北欧の学校に行って最初に驚かされるのは、教室内にソファがあったり、ラグがあったりすることだと思う。

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廊下にもそれは溢れている。(↓左の方に写っているのは、いわゆる「人間をダメにするソファ」みたいなやつね)

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僕自身も初めて北欧に行った時(2年前)にめちゃめちゃ驚いた。当時は、単純にリラックスするためかなぁとか思っていたけれど、今回は同行した中田先生や坂田先生と話す中で、もう少し違う印象を持った。今回、「アクティブラーニングの促進」とか「アクティブラーナーの育成」というテーマをもって視察に行ったことも、背景にあるのかもしれないが、今回持った印象は「学びたい場所で学ぶ」ための環境を用意している、ということだ。主体的に学ぶうえでは、どのように学ぶか(例えば場所)も、出来うる限り各自に任されているのだと感じた。椅子に座って学ばないといけない、なんてことはない。ソファで学んでもいいし、床のラグの上でもいいし、時には、体育館のマットの上でも、教室の外の階段の踊り場でもいい。

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学ぶ場所は、その子自身が選んで決めればいいのだ。それがその子らしい学び方なのかもしれない。

さて、その「学ぶ場所」と同様、子どもたちに預けられているように感じたのは、「授業へのやる気」である。つまり「授業にどのくらい取り組むか」ということでさえ、子どもたちに預けられているように感じた(言い過ぎかな…)。

子ども達を見てみると、集中の度合いは(少なくとも見た目には)かなり差異がある。やる気なくぼーっとしてる子もいるし、友達とのオシャベリに夢中の子もいる。例えば、クラス全体としては「錯覚」に関するワークをやっている中であっても、ギネスの本を読んでいる子もいた(↓の写真)。

そのすべてのあり方が許されていたように思う。

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つまり、【どのように学ぶか】、という判断は子どもたちに預けられており、その中で許される選択肢としては、「適当にやる」「乗り気でない」というのも「アリ」とされているように感じた。

2、「信頼」とは

とすると、日本で育って日本で教員として働いてきた自分からすると気になるのは、やっぱり「勉強遅れちゃう子が出てきちゃうんじゃないの?」ということ。「やらない子にも「やれ」って言わないわけでしょ。そしたら、勉強全くしない子、出てきちゃうんじゃないの?」と。そのことが気になってしまい、ある場面で先生に直接その疑問をぶつけてみた。

答えはこうだった。私の懸念を否定したうえで、その先生は次のように言った。

「子どもたちの学ぶ力を信頼している」

この言葉を聞いて最初に思ったのは、「イヤイヤ、信頼してる言うて、学べてないやん」てこと。「それは信頼という名の放置やん」てこと(なぜか関西弁)。正直、そう思ってしまった。

でも、次の言葉でそれが勘違いだと分かった。

「誰にでも関心のもてる分野は必ずある。」

・・・なるほどね。すべての教科、すべてのタイミングで「やる気出てるよー」って姿勢を見せる必要はないわけだ。どこかの場面でやる気出てない子がいることを、まるで「学ぶことが出来ない子」がいるように捉えてしまったのは、完全に日本の考え方を前提にしているな、と。「関心・意欲・態度」としてモチベーションや学びに向かう姿勢を常に評価し続ける日本のやり方で言えば、その子は低い評価になる。

でも、「どこかの分野でしっかり関心を持って学べればいい」とするならば、別にやる気が出ていない一瞬があっても、まったく問題ではない。むしろ、「取り組み方を各自に任せる」とすると、それぞれの子のなかで分野によって関心にバラつきがあるのは、当然なわけだ。。。

3、【学びに火がつく】

さて、さっきも書いたように、一瞬一瞬で見ると「やる気ないな」を感じる子がいる一方で、逆に、集中している子は、ものすごーーく真剣に活動に取り組んでいた。どういう言い方をしたらいいかわからないけど、「学びに火がついた」感じ。

例えばこの子。

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この授業で取り扱っていたのは、光の屈折。特に、凸レンズを通すと光線が屈折して、焦点に集まるってやつね。それを体験出来るレーザー光を使ったキットがあったわけだけど、これに対する取り組み方が、すごかった。ズーッとレンズを動かしながら、色々とイジっていた。他の子にしゃべりかけられても、受け答えは上の空で、ズーーーーっと何かを試していた。レンズを前や後ろにやったり、斜めにしたり、凹レンズと組み合わせたり…。真剣な顔で取り組んでいた。(顔を見せられないのが残念)

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この子の学びの心には、確実に火がついていたと思う。

そういう場面は他にも。例えば、うえで書いた、「錯覚」に関する授業でも、ギューっと集中した様子で、本をいろんな角度から見たり、話したり近づけたり、色々試している子がいた。

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こういうタイミングがくることを、先生たちは待っているのかもしれないなと思う。つまり、その子その子なりにあらわれる【学びに火がつく瞬間】を待っているということ。

そして、「その瞬間は誰にでも来る。」「誰にでも、関心をもてる分野はある。」これを【信頼】と言っているのだという気がした。信頼しているからこそ、待つことができる、と。

一瞬一瞬だけ見て切り取ってしまうと、一部の子しか高い集中をしていないようにも見えるけれど、それぞれの子に異なる「火がつく瞬間」があり、そして、トータルで見ると、誰にでもその瞬間は訪れる。そして、それを信頼して、待っている。そういうことなのかもしれない。

4、主体的に学ぶ

これって、もしかしたら「学ぶ場所」や「学ぶ姿勢」を強制し、常に「適切な態度」を示すことを求めていたら、逆に出会いにくい瞬間なんじゃないだろうか。自由に選択できるからこそ、やる気起きないように見える瞬間も生じるけど、逆に、関心に引っかかった時の学びの爆発力もすごいのかもしれない。

あえてシンボリックに言えば、「やらない」という選択肢も与えられるからこそ「やる」という選択肢を主体的に選んだと言えるのかもしれない。

「やる」しか選択肢がない場合には、たとえそれを自分で選んだとしても、主体的に選んだとは言いづらいんじゃないだろか。

よく言う「主体的にやれ」と言ったら主体的でない、に近い。

子どもたちに、常に一定以上の「学ぶ姿勢や学ぶ場、学び方」を求めると、ヤラされ感が漂うのはご存じの通り。そういう状態に慣れてしまうと、こういう瞬間(学びに火がつく瞬間)がかえって訪れにくくなる可能性はあるだろう。一瞬一瞬ではそれなりにみんな学んでそうに見えるんだけど、「自ら選び取って学びに取り組む」という体験や、そしてなにより、【自分なりの学び方で何かを獲得することの喜びや興奮】からは、逆に、遠ざけてしまっている可能性もある。

そんなことを感じたり考えたりした。

5、教員の関わり

さてさて、↑にも書いたように、「やらない」という選択肢さえ許されている、と書くと、「教員は何もしない」かのように受け止められてしまうかもしれない。つまり、言いたいことだけ言って放置。あとは興味がある子だけ考えてね、みたいな。(実際、帰国してからこの視察の感想を話した時に、そういうコメントをもらうことがあった)。

でも、そういうことではない。

子どもの興味や関心を高めるための働きかけは、すごく丁寧に力を入れておこなわれている。つまり、ルールやしつけ、あるいは評価を通じて前を向かせようとするのではなく、授業の内容や教材、デザインで子どもたちを惹きつけようとしていたような感じ。

特に、「問い」のデザインは、すごく大事にしているんではないだろうか。例えば、先ほどの「学びに火がついた」子がいた、光の授業の「問い」は、下の図に表した感じ。

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つまり、どうすれば、平行な3本の光線を、1本の光線にまとめられるか、というような感じだったと思う。上の図でいう[?]にあてはまる凹レンズ・凸レンズの置き方を考えるというもの。・・・だった気がする。これを考えるために、あの子は、ズーーーッと真剣に考えていたのだ。

また、他の授業でも、モラルジレンマを扱かったり、歴史映画を作成したり、目の錯覚が起きるのはどんな時か、を考えたり。。。面白そうな問いが多かった(1年経って忘れてしまった…)。学び方を預けている以上、この問いの質によって、子どもたちの関心、学びのエネルギーには、相当な差異が出るんだろうし、だからこそ、「問い」にこだわるんであろう。

あともう一点は、子どもに対するアセスメント。ワークをやっているタイミングでは、適当に机の周りをまわってるように見えて、色々と先生たちは働きかけていた。現地語がわからないのでおそらくだけど、その言葉かけは「もっとチャンとやりなさい」とか、そういう感じではなさそうに見えた。

例えば、高校の英語。エッセイの授業。

机の周りをまわり、生徒の様子を見ながら、時々教師卓に戻って、いろんな資料を持ち出し、書画カメラで全体に見せていた。生徒たちの間で出ている話、生徒たちの様子に応じて、必要な資料を判断してピックアップして見せている感じだった。

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他の授業を見ても、なんとなく、こういったことは重視されていると感じた。つまり、「学び方を預けたうえで、興味関心を惹きつけるべく、問いをデザインし、アセスメントに基づいて即興的に関わる」。そんな風に感じることが多かった。

6、付随するポイント

以上のような点を感じたというのが、前回のフィンランド視察のポイントだけど、↑のような授業を展開するうえでの条件というか、付随して捉えなきゃいけないポイントはいくつかあるなと思う。ここではそれを書いておきたい。

(1)教員の力量の影響が大きい

うえで触れた授業は、特に、「うまくいっているな」と感じた授業である。で、実は、逆に「うーーん」と思ってしまったものもある。授業の質の差異(僕が思う質ではあるけれど)はかなり大きい感じがした。学び方を預けるからこそ、教員の力量の差がダイレクトに出るんだと思う。つまり、さっきも書いたような、「問い」をデザインする力や、アセスメントにもとづいて、即興的に関わる力。そういうものの影響がかなり大きいと思う。

その意味で、教員の力量形成はそうとう重要だと思う。
が、このエントリーで力量形成についてまで書くと、また倍くらいになっちゃうんでそれについてはまた別のエントリーで。

(2)就学前教育について

上にあげたような授業を受け、自ら獲得していく学びに取り組むうえでは、各子どもにもそれなりの素地が必要なんだろうと思う。就学前教育(というか、幼稚園?)から小学校にあがる段階で、一定の基準に達していないという理由で、それなりの割合の子が進級を1年遅らせたりしていると聞いた。僕が訪れた学校だけの仕組みか、一般的なのかはわからないけれど…ただそこでは、(日本でいう)年長さんを2回やるというようなことは、珍しくないようだった。

日本的な視点から言えば、「小学校前に留年?」とか思ってしまって、暗い印象を持ちがちだけど…でも、それは同年齢は同学年という前提を持ってみているだけで、そもそも初めからそれ(同年齢同学年)が念頭にないのなら、気にならないのかもしれない。

↑にも書いたように、フィンランドの教育には、「待つ」ことを大切にしているような文化、「待つ」ことが可能なおおらかさが溢れているので、そういう意味でも不自然ではないのかもしれない。

(3)社会全体のおおらかさ

これは完全に推測だけれど…

「待つ」とか「信頼」を大事にし、じっくりすすめることが許されるおおらかさは、学校だけで醸成されているとは考えにくいんじゃないだろうか。例えば、社会全体が馬車馬のように働いて、生き馬の目を抜くような競争にあけくれて、お互いに蹴落としあうような状況のなかだったら、学校だけがおおらかにできるということはないだろう。

ちょっと前にベーシックインカムも話題になったけど、国全体にある、社会への信頼みたいなものがベースにあるんじゃなかろうか。日本の社会の競争が激しいかはまぁいろんな味方あるでしょうが、少なくとも、●●したら負け組、とか、●●したら人生おしまいみたいな、そういう悲壮感は高いように思う。フィンランドの場合、そういう緊張感に満ちた空気は、学校に限らず薄いんではないだろうか(と、想像する)。

だからこそ、学校が「待つ」ことも出来る。大人が「待つ」ことができる。そんなような感じなんじゃないだろうか。

(4)日本にとって

(3)みたいなことを書くと、結局、「フィンランドの教育はフィンランドだからこそできるもので、日本には関係ない」みたいに見えてしまうかもしれない。国の規模やら、国が目指しているところもおそらく違うし、そういう意味では、学校の使命も違うだろうし。そして最も違うのはクラスサイズの大小かもしれない。
けれど、だからといって「アッチだからこそできて、コッチではできっこない」として、バッサリしてしまう必要もない。単純に、「何が学べるか」なんだろうと思う。

いろんなポイントはあるだろうけど、例えば、途中で書いたような「学び方を預ける」場面は日本でももう少しあっていいんじゃなかろか。特に、総合とか。調べ方も、その結果のまとめ方も、発表の仕方も、全部教えてその方法でやらせる場合が多いけれど(それが必要な場合もあることは重々承知だけど)もう少し、その取り組み方等は子どもたちに預けてもいいのかもしれない、と思う。

もっと単純な点で言えば、教室空間はもう少し自由にできるんじゃないだろうか。フィンランドほどにできるかどうかは別としても、「学びたい場所で学ぶ」を実現できるような工夫を【少し】やってみるとか、そういうことって大事かもしれないと思う。。。

というわけで、長々と書いてきたわけだけど、振り返ってみれば、このフィンランド視察はいろんなことを考える機会になった。

日本を離れて、日々の仕事を離れて考えるタイミングってのは大事だなと思う。

もっと細かいことで色々感じたことはあったけど、とりあえず今回はここまで。

来月にはまた北欧(スウェーデン)に行くんで、また色々刺激を受けられると思うと楽しみだ。

【参考】

●1、視察行く前のブログ
●2、「海外」カテゴリ

部活動問題の難しさの一つ 

このところ、部活動問題が世間を賑わしている。
部活動を担う教員が長時間労働で大変だという話。
やったことない部活を担うことが大変だという話。
保護者も含めいろんな人の思いに対応するのが大変だという話。

で、「部活動は学校の教員がやるべきことなのか」という議論が起きている。
この問題についての自分のスタンスはあるんだけど、一旦それはわきに置いておきたい。

ここでは、部活動の問題がつらいことの背景(はいろいろあると思うんだけど)、そのうちの一つについて取り上げたい。

それは、

【部活動のやり方は誰も教えてくれない】

ということ。

ここでいう「やり方」とは、練習方法などではない。
練習方法とかは、実は、それ系の雑誌もあったり。
本屋に行けばいろいろ売ってる。
「強くする」ための方法は色々ある。

むしろ、もっとシビア。

例えば・・・

・練習日を減らしたいんだけど、どうやって、どのタイミングでそれを伝えることで、スムーズにそれが可能になるか
・逆に、増やしたい場合に、どうやって合意をとるか

勤務時間の話が話題になっているので↑の点を取り上げてみたけど、他には・・・

・部活動の子達(特に自分が顧問になる前からの子)の持ってる考え方が、自分のやりたい方向性と合わない。どう変革していくか。
・保護者の期待が過剰すぎる。どう対応するか。

などなど。
総じて言うなら・・・ 【自分らしく部活動をやる方法】 かな。
さらに色をつけて言うなら 【部活動を楽しむにはどうしたらいいか】 かな。

これは、誰も教えてくれない。

授業であれば、大学でも学ぶ。
教員になってから研修もあれば授業研究もある。

生徒指導や学級経営も難しいところだが、
例えば、同学年の先生など、運命共同体になっている人たちがいるから、
その人たちに関わる中で教えてもらったり、学べる機会はそこそこある。

でも、部活にはそういう関係がない。

とりあえずまず、行政研修にはそういう機会はない。

顧問会みたいな組織はある。
ただ、そこで出る話は「強くするには」が基本。
そもそも、顧問会で人間関係築くには「強くしたいんですけど・・・」というスタンスが必要かな。

校内の他の部の顧問とそういう話が出来るかというと、ちょっと難しいかも。
↑にあげたような学年の繋がりとか、そういう関係性のなかでちょうど似たようなスタンスだったり、考え方のスタンスがあう先輩がいると、聞けるチャンスがあるかもしれない。

しかし、総じて言えば、部活動の「やり方」について学べる機会は乏しい。

なぜそうなるか。

ここでは公的な研修が行いづらい理由について書くけど、
その理由の一つは、やはり、「部活動の位置づけが難しいから」だろう。

部活動は、教育課程外の活動である。
”教育課程との関連を図る”とは言われている。
実際、学校内には部活動関連の会議体があるし、勤務時間内にも部活動は行われている。
しかし、「独自の取り組み」という建前がある。

そんな曖昧な位置付け。
で、その位置付けの難しさの最たるものが、部活動自体には給料が出ないということ(ちょっとだけでるけど)

この曖昧な位置付けが、公的な研修を行いにくい理由だと思う。
つまり、研修の間の教員はどういう立場で行ってんのか、てこと。
普段の部活関連の勤務は教員としては行えないけど、部活動の研修は教員として行ける、てのも変な話だよね。

もう少し別の言い方をすると、職務専念義務を外す時間として扱えるの?ていう。
教員(含め、地方公務員全員)には職務専念義務がある。
勤務時間内は職場で職務に専念「しなければならない」。
その義務を外せるのは、諸々理由あるけど、関わるところでいうと、「校外研修」だけ。
その枠に含められんの?っていう。

もちろん、曖昧なラインで行われていることはたくさんある。
部活のために外に出るってのはね。

その一方で、【教委自身が】それをやったら、妙に公的なお墨付きを与えることにもなったりするのかもしれない。
「部活研修にお金支払われるなら、部活は公務だよね。普段の練習も勤務時間に数えてよね」
そこまでヤ●ザな言い方はないだろうけど、そういう論拠になりかねない。

そんなわけで「研修として手を出しにくい領域」なんだろうと思う。
部活動のガイドラインを作るとか、部活動問題の検討会をすることはあっても、部活動についての研修は行いにくいんだと思う。。。ま、たまにあるけどね。。。ほとんどない。

(先日、ある教委の方とのインフォーマルな場で↑みたいな話をたけど、だいたい認識はズレてなかったように思う)

今日は、部活動の難しさについて、「自分らしいやり方を学ぶ機会が少ない」という観点から書いてみた。
これを書いた背景にある思いは、「もっと学びの機会があればいいのにな」ということ。
そうすれば、もっと自分らしく教員生活を送れる人が増えるんじゃないだろうか…

最後に、部活の運営について学ぶ機会はほとんどない、て書いたけど、部活の運営について色んなヒントが得られる稀有な本を1冊ご紹介したい。

◆杉本直樹 著 『部活動指導スタートブック : 怒鳴らずチームを強くする組織づくり入門』 →amazonはこちらから
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内容は、すごく実践的だし、「自分らしく部活を運営する」ためのヒントがたくさんある。
書いてあるのは、「組織」とか「経営」とか「哲学」とか・・・部活の本としては珍しい。
例えば、ある章のタイトル、「自分自身の『部活動経営哲学』をもつ」。

副題にもある通り、基本的に「強くする」ことを目指すというスタンスではあるんだけど、「自分の考え方をもって自分らしく部活を運営するには・・・」という視点ですごく勉強になる本だと思う。

といったわけで、以上で終わりたいと思う。
途中にも書いたけど、僕自身は、部活についてもっと学びの機会があればいいのになと思う。

逆に、そういう学びを得ずに(求めずに?)、最初から「イヤだ!!つらい!!!」てなる人が増えるのは、僕としては悲しいと思う。

もう少し言っちゃうと、今の、部活が政治問題化して、単なるケンカの争点になっているような状態は、やりたい人にとっても、やりたくない人にとっても、なんだか悲しいなと思う。

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気がつけば、また長くなってしもーた・・・
長文にお付き合いしてくれてありがとうございました。

最後になりますが、杉本先生の本は、まじでおすすめっす。
やりたい人にも、やりたくない人にも勉強になる。
というか、部活以外のことにもすごく活かせると思う。

僕は杉本先生のtwitterもフォロしちょります。

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追伸

この記事では公的な研修について書いたけど、徐々に、民間のセミナーとかでも部活運営のことを取り上げるものが増えて欲しいと思います。。。また杉本先生の話になっちゃうけど、先生のtwitterではそういう活動についても紹介されてますのでおすすめです。