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部活動問題の難しさの一つ 

このところ、部活動問題が世間を賑わしている。
部活動を担う教員が長時間労働で大変だという話。
やったことない部活を担うことが大変だという話。
保護者も含めいろんな人の思いに対応するのが大変だという話。

で、「部活動は学校の教員がやるべきことなのか」という議論が起きている。
この問題についての自分のスタンスはあるんだけど、一旦それはわきに置いておきたい。

ここでは、部活動の問題がつらいことの背景(はいろいろあると思うんだけど)、そのうちの一つについて取り上げたい。

それは、

【部活動のやり方は誰も教えてくれない】

ということ。

ここでいう「やり方」とは、練習方法などではない。
練習方法とかは、実は、それ系の雑誌もあったり。
本屋に行けばいろいろ売ってる。
「強くする」ための方法は色々ある。

むしろ、もっとシビア。

例えば・・・

・練習日を減らしたいんだけど、どうやって、どのタイミングでそれを伝えることで、スムーズにそれが可能になるか
・逆に、増やしたい場合に、どうやって合意をとるか

勤務時間の話が話題になっているので↑の点を取り上げてみたけど、他には・・・

・部活動の子達(特に自分が顧問になる前からの子)の持ってる考え方が、自分のやりたい方向性と合わない。どう変革していくか。
・保護者の期待が過剰すぎる。どう対応するか。

などなど。
総じて言うなら・・・ 【自分らしく部活動をやる方法】 かな。
さらに色をつけて言うなら 【部活動を楽しむにはどうしたらいいか】 かな。

これは、誰も教えてくれない。

授業であれば、大学でも学ぶ。
教員になってから研修もあれば授業研究もある。

生徒指導や学級経営も難しいところだが、
例えば、同学年の先生など、運命共同体になっている人たちがいるから、
その人たちに関わる中で教えてもらったり、学べる機会はそこそこある。

でも、部活にはそういう関係がない。

とりあえずまず、行政研修にはそういう機会はない。

顧問会みたいな組織はある。
ただ、そこで出る話は「強くするには」が基本。
そもそも、顧問会で人間関係築くには「強くしたいんですけど・・・」というスタンスが必要かな。

校内の他の部の顧問とそういう話が出来るかというと、ちょっと難しいかも。
↑にあげたような学年の繋がりとか、そういう関係性のなかでちょうど似たようなスタンスだったり、考え方のスタンスがあう先輩がいると、聞けるチャンスがあるかもしれない。

しかし、総じて言えば、部活動の「やり方」について学べる機会は乏しい。

なぜそうなるか。

ここでは公的な研修が行いづらい理由について書くけど、
その理由の一つは、やはり、「部活動の位置づけが難しいから」だろう。

部活動は、教育課程外の活動である。
”教育課程との関連を図る”とは言われている。
実際、学校内には部活動関連の会議体があるし、勤務時間内にも部活動は行われている。
しかし、「独自の取り組み」という建前がある。

そんな曖昧な位置付け。
で、その位置付けの難しさの最たるものが、部活動自体には給料が出ないということ(ちょっとだけでるけど)

この曖昧な位置付けが、公的な研修を行いにくい理由だと思う。
つまり、研修の間の教員はどういう立場で行ってんのか、てこと。
普段の部活関連の勤務は教員としては行えないけど、部活動の研修は教員として行ける、てのも変な話だよね。

もう少し別の言い方をすると、職務専念義務を外す時間として扱えるの?ていう。
教員(含め、地方公務員全員)には職務専念義務がある。
勤務時間内は職場で職務に専念「しなければならない」。
その義務を外せるのは、諸々理由あるけど、関わるところでいうと、「校外研修」だけ。
その枠に含められんの?っていう。

もちろん、曖昧なラインで行われていることはたくさんある。
部活のために外に出るってのはね。

その一方で、【教委自身が】それをやったら、妙に公的なお墨付きを与えることにもなったりするのかもしれない。
「部活研修にお金支払われるなら、部活は公務だよね。普段の練習も勤務時間に数えてよね」
そこまでヤ●ザな言い方はないだろうけど、そういう論拠になりかねない。

そんなわけで「研修として手を出しにくい領域」なんだろうと思う。
部活動のガイドラインを作るとか、部活動問題の検討会をすることはあっても、部活動についての研修は行いにくいんだと思う。。。ま、たまにあるけどね。。。ほとんどない。

(先日、ある教委の方とのインフォーマルな場で↑みたいな話をたけど、だいたい認識はズレてなかったように思う)

今日は、部活動の難しさについて、「自分らしいやり方を学ぶ機会が少ない」という観点から書いてみた。
これを書いた背景にある思いは、「もっと学びの機会があればいいのにな」ということ。
そうすれば、もっと自分らしく教員生活を送れる人が増えるんじゃないだろうか…

最後に、部活の運営について学ぶ機会はほとんどない、て書いたけど、部活の運営について色んなヒントが得られる稀有な本を1冊ご紹介したい。

◆杉本直樹 著 『部活動指導スタートブック : 怒鳴らずチームを強くする組織づくり入門』 →amazonはこちらから
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内容は、すごく実践的だし、「自分らしく部活を運営する」ためのヒントがたくさんある。
書いてあるのは、「組織」とか「経営」とか「哲学」とか・・・部活の本としては珍しい。
例えば、ある章のタイトル、「自分自身の『部活動経営哲学』をもつ」。

副題にもある通り、基本的に「強くする」ことを目指すというスタンスではあるんだけど、「自分の考え方をもって自分らしく部活を運営するには・・・」という視点ですごく勉強になる本だと思う。

といったわけで、以上で終わりたいと思う。
途中にも書いたけど、僕自身は、部活についてもっと学びの機会があればいいのになと思う。

逆に、そういう学びを得ずに(求めずに?)、最初から「イヤだ!!つらい!!!」てなる人が増えるのは、僕としては悲しいと思う。

もう少し言っちゃうと、今の、部活が政治問題化して、単なるケンカの争点になっているような状態は、やりたい人にとっても、やりたくない人にとっても、なんだか悲しいなと思う。

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気がつけば、また長くなってしもーた・・・
長文にお付き合いしてくれてありがとうございました。

最後になりますが、杉本先生の本は、まじでおすすめっす。
やりたい人にも、やりたくない人にも勉強になる。
というか、部活以外のことにもすごく活かせると思う。

僕は杉本先生のtwitterもフォロしちょります。

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追伸

この記事では公的な研修について書いたけど、徐々に、民間のセミナーとかでも部活運営のことを取り上げるものが増えて欲しいと思います。。。また杉本先生の話になっちゃうけど、先生のtwitterではそういう活動についても紹介されてますのでおすすめです。

若者の投票率を上げるには、まず大人に訴えた方がいいかも :投票参加の期待効用モデルの紹介など

先日の非常勤先の授業で、政治教育を扱った。
18歳選挙権が開始され、かつ、受講者の殆どが18から20歳くらいということもあって、あえて政治教育を扱ってみた。

授業では、なぜ今政治教育が注目されるのか。政治的事象を扱う難しさや、政治的中立に関わる幾つかの事件・事象について話し、近年盛んな模擬投票なとの実践例を紹介した。
その中で、投票率の話をする際に紹介したのが、【投票参加の期待効用モデル】。

幾つかモデルはあるようだが、その中で、ライカーとオードシュックによるモデルを紹介した。Wikipediaにも載ってるし、多くの人が知ってるんじゃないかと思うけど、ここでも紹介しておきたい。

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Rがreward。その有権者の利得。これがプラスなら投票に行き、その逆なら棄権。

Pは、自分の投票行動が選挙結果に影響を与える確率(possibility)についての、有権者の認知。自分の一票の影響力をどう捉えているか、という話。
Bは、有権者にとっての政党間(候補者間)の期待効用差(benefit)。通ってほしい人が通った場合と通って欲しくない人が通った場合とで、どんぐらい違いがあるか。言い換えると、どんぐらい通ってほしい人がいるか、という話かな。
Dは、色々捉えはあるようだけど、義務感(duty)かな。つまり、有権者の責任として行くべき、というような感覚。
Cはコスト。めんどっちーかどうか。(参考;Wikipedia)

このモデルは納得感高い気がするなぁ。接戦とか、政権交代が話題になっていたりすると、Pが高く、強く選びたい党なり人なりがいれば、Bが高くなり、投票に行きたくなる。そういった状況とは別に、Dを大きく感じている人は投票に行く。と。

ま、それぞれの変数が独立とは言えないかもしんないけど、少なくとも整理には役立つ気がする。

さて、若者は、選挙に対して次のようなイメージを持っている(と言われている)。

・「自分が選挙に行っても行かなくても変わらない」とか、
・「違いがわからない」「誰がやっても一緒」とか。

これは、先ほどのモデルに合わせて考えると、前者がPの話で、後者がBの話であり、PやBが小さいということ。

ただ、これって本当かな?という疑問もわく。
というのも、こういう話がクローズアップされるのはだいたいテレビだったりするんだけど、テレビはこういう「わかんなーい」系の話を聞くときは、必ず渋谷でインタビューするんだよね。
(逆に、若者のしっかりした話を聞きたいときは、銀座の親子連れの子供の方に聞いたり。)

つまり、そういう「わかんなーい」系の若者像は、ある程度「つくられたもの」かもしれないという疑問は沸く。
本当に若者の傾向と言えるんだろうか。

・・・というわけで、このPBDCについての、年代別調査を見てみた。
2011年の参議院の時の調査かな。
手元に汚い画像しかなくて申し訳ないけど、

①P要因 自分の一票が選挙結果を左右すると思えた(下が若者。以下同)

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②B要因 自分の選挙区に、どうしても当選させたい候補者がいた

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③Bの逆転項目 候補者についてよくわからなかった

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④C要因 投票に行くのは面倒だった

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これらを見ると、見事に年代で差が出ており、前述のイメージ通りの結果になっていることがわかる。
確かに、若者は一定程度、そういう傾向にあるようだ。

(グラフの引用元は、『初めての政治学―ポリティカル・リテラシーを育てる』明治学院大学法学部政治学科)312ud7uwicl-_sx339_bo1204203200_

 

さて、政治教育の話に戻ります。

前述のモデルに絡めて言うと、これまでの政治教育はほとんどDにつながる話だけをしてきたんだと思う。民主主義の仕組みやら選挙の仕組みやら、仕組み系の話とかが話の中心。
というのも、旭丘中学校事件を始め、諸々の経緯を経て、具体的な政治的事象について触れることはむしろタブー化されてきた(この辺りは組合とか出てくる話で、話がややこしい)。
個々の政策、ニュースに出てくる政策などについては、時事問題等でその政策に関する基礎知識を扱うことはあっても、その政策について「どう思うか」といった事はやってこなかった。
繰り返しになるけど、仕組みの話が中心で、その最後に民主主義や選挙の意義(つまりDの話)に触れる程度。

が、この傾向が変わりつつある。

昨年来話題になっているのは、政治的事象を積極的に扱っていこうという話。18歳選挙権をきっかけに、これまでタブー視されてきた、具体的な政策の話とか、そういう辺りを扱って行こう、という流れが出始めている。これらは、PやBにガンガン関わる話だろう。
とは言っても、やはり、解禁していくか、抑制的になるべきか、という揺れがあり、現状はゴチャゴチャなんだと思う。特に公職選挙法に触れないように政治教育を行ったり、いかにして中立性を確保しながら扱うか、という部分は現場に大きな迷いが出ているという話。
昨年末だったかな、文科省が「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」という通知を出し、ひとまず整理を試みたという段階かな。実際に授業するうえで言えば、この通知によって「気をつけるべきこと、留意すべきこと」はわかるんだけど、ま、それだけで授業ができるはずもなく、難しい状況は変わらない、という感じだろうか。

そんな中で、政策比較表を作ったり、模擬選挙をしたりというような、多くの学校で行える、モデルになりそうな実践が広まり始めているのが、現状だろう。改めてもとのモデルに関わって言えば、ここに来てやっとPやBに関わる教育が広まり始めた、という状況。

偉そうな言い方になると嫌だけど、こういった実践のさらなる広がりに期待したい。

授業では、以上のような話をした。

ここからは、少し話が変わるけれど、若者の投票率向上に向けた呼びかけについても書きたいと思う。このところ、「若い人は選挙に行くべき」という語りと、「そんな事言っても自己満だ」といったような発言、ブログが色々なところで散見される。前述のモデルというか、P/B/Dという分類は、この話を整理するうえでも一つのヒントになる気がする。

これまでの「選挙に行こう」系の話は、Dに訴える系のものが多いように感じる。社会の一員として、みたいな。確かに、毎回必ず投票している人は、Dが高いんだろう。わからないけれど、「選挙に行こう」と若者に訴える人は、おそらく自分自身がこういった類の人であり、若い人にもそれを期待するんだろうな。

でも、もともと「行く気ないなー」って思っている人にそういう話は効果をもたらすんだろうか。なぜなら、Dに関わる話は、これまでも何度となく耳にしているだろうから。その結果として「行く気ない」に至っている人に、改めて、似たような話をして届く可能性はあるんだろうか。

有り得るとしたら、身近にいる信頼する、尊敬する大人に言われたら、もしかしたら影響するかもしれない。逆にいうと、SNSでちょっとしたコラムで訴えても、あるいは、それらのシェアやリツイートを通じて訴えても、なかなか届かないような気がする。

若者の投票率を上げようとする訴えは無駄だとは全く思わない。実際、僕自身、いろんなところで言ってる。中学校の授業でも、ずっと言ってきたし、中3の最後の授業では必ず言ってきた。選挙に行かない大人にはなるなって。今も、非常勤の授業でも言っている。
ただ、共通するのは、身近な、影響力を発揮しうる人に言っている、ということ。

そういう意味で、SNSで訴えるとしたら、若者に「選挙に行こう」と訴えるのではなく、大人に「身近な若者に選挙に行こうと呼びかけよう」と訴えることの方が良いかもしれない。

繰り返しになるけど、若者にとってみたら、「選挙の大切さの話」はこれまでも何度も聞かされているわけで。SNSを通じた薄い関係の人に似たような話をされても変わらないんじゃなかろか。それまでの「選挙の大切さの話」と変化が出るとしたら「誰が語るか」の違い。身近にいる、信頼できる、尊敬する大人から言われたら何か変わるかもしれない。

次に、D以外を推すタイプについて。

支持政党や政策に関する話こみで「選挙に行こう」を訴える人は、B重視かな。(例えば、)今回自民党が勝っちゃうと●●だから選挙に行こう、とか。ただ、これって、聞き手に政治に関するある程度の知識が必要かな、と思う。そこからコツコツやっていく必要がある気がする。時間かかるけど。

逆に、そういう基礎知識を培う段階をすっ飛ばして、ある党が政権を取ることの重要性を訴えたり、逆に、その恐ろしさを訴えて、「だから選挙に行かないと」と訴えるしたら、それは殆ど洗脳に近いんじゃないだろうか。

Pについても、B同様に、基礎知識が必要だし、時間をかけてやるべき取り組みだよなと思う。
もとの話に戻っちゃうけど、この辺り(PB)を高める事が、まさにこれからの政治教育に求められるところだろう。

というわけで、今回のブログは、モデルの紹介やら、政治教育の話、それから、モデルを参考に「若者よ選挙に行こう」運動について見てきた。
いつも通り、脈絡なく(笑)思いつくままに書いてきた感じで、読みづらかったと思います

色々書いてきましたが、要は、

・R=P×B+C のモデルはわかりやすいな
・若者の投票率向上は、若者に訴えるより、大人に訴えた方がいいんじゃないか

というあたりが今回書きたかったことかな。
しかしまぁ、考えても見れば、周りの大人に「選挙行け」ばっかり言われたらめんどくさくてしょうがないだろうなw

とか言いながら思ったけど、選挙に行くかどうかが、そういう事言ってくれる大人が周りにいるかどうかに拠るとしたら、つまり、自分の訴えが政治家に捕捉される可能性が、周りの大人次第で決まるわけで。
これってつまり、選挙を通じて格差が再生産されるような形になるんだね。

ま、今更言うまでもないか。

それからもう一つ思うのは、唯一、手っ取り早く投票率上げられるとしたら、Cを下げることのような気がするってこと。スマホで投票とかはいろいろと壁があるとしても、もー少し工夫はできるような気がするんけどな・・・駅で投票とか。
なんでやらんのだろ。外から見てるとわからない、単純にはわからない「壁」があるんだろな。
あるいは、若者の投票率が上がるとまずい理由があるとか。笑
その辺りわからないけどね。。。

あ、また長くなってしまいそう。
もうやめよう。
その辺はまたいつか。
尻切れとんぼみたいだけど、とりあえずおしまいにします。
ではさようなら。

学校から楽しい「ものづくり」が消えたのはなんでだろ :障子とか、教育課程特例校制度とか、評価とか、プログラミング教育とか、宣伝とか。

昨日、僕は実家に行って、障子はりをした。
朝から晩までかけて、剥がして、ノリ付けて、新しいの貼って、周りをカットする、、、みたいなことをずっとやってた。
子どもを連れて行き、子どもは母さんに見てもらって、僕は作業に集中して、みたいな形。

で、昼頃には姉ちゃんが子どもを連れてやってきた。
つまり、その子どもたちってのは、うちの娘にとっていとこ。
いとこ同士はとっても仲良しで、会うとものすごくワーキャー言いながら遊ぶ。
昨日も、大盛り上がり。
(自分も駆り出されて「鬼」役をやりまくってた。障子を乾かす間とか。)

で、ふと気がつくと、子どもたちは折り紙で紙ふぶきを作ってた。
「ゆきー」とか言ってね。
その紙ふぶきを収納する道具も折り紙で作って。
その中身をぶちまけることはアビちゃん(母)に止められちゃったものの、それを作ってる時点で、かなり楽しそうだった。

よく考えると、うちの子はよくそういう事してるなーと思う。
ハサミやセロハンテープを使って、特に、遊び道具を作ったり、(うちの子が思う)必要なものをなんとか工夫して作ったり。
そういう事やってる間って、めっちゃ没頭してる。
セロハンテープの使い方とか、ハサミの使い方とか、特に教えてないけど、あるものを使って、知ってる方法を組み合わせて、なんとか作ってる。
これって、めちゃめちゃ頭使ってるし、すごく楽しいんだろうし、学んでるよなーーーって思う。
うちの子に限らず、こういうのって多いんだろうなと思う。
ものづくりを通じた自然な学び、というか。
ね。
自分も小さい時、こんなんしたと思う。

ところで、こういう場面で学んでる事って、大きく分けると2つあるよなぁ、と思う。
はさみやなんやらの使い方。道具的にどう使うか。
それから、「どうやって作りたいものを作るか」という思考というか思考方法というか。

この2つを組み合わせて、想いを実現する。
ほんで、
【出来たーーーわあぁぁーーーー】
みたいなね。

昨日考えたプログラミング教育も、そういうものになるといいかなと思ったりもした。
というのも、GLOCOMの豊福晋平さんのFacebookの投稿見て、そう思った。

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小学生のプログラミング教育をどう捉えるか。頭でっかちでCS(Computer Science)の知識とか言語仕様ばかりでカリキュラムを作れば、一番つまらない教え込み主義に堕落するだろう。むしろ、自ら身の回りのモノを工夫して遊びを創り出すような、子ども目線の発想とマッチすればプログラミングは俄然面白くなる。
子ども目線でのプログラミングの醍醐味を言い換えれば、与えられたルールの中で遊ぶのではなく、自分でルールを作って他人に遊んでもらえること、あるいは、与えられた道具をただ使うのではなく、素材や組み合わせを工夫して、自分の納得する道具を作ってしまうこと。
2月品川区京陽小で見たScratchの使い方には素直に驚いた。小2国語の児童プレゼンに小4演劇のプロジェクション・マッピングにScratchを使う。出来合いのパワポや発表名人ではなく身近な道具を工夫して使う。児童のプログラミングのスキルがその発想や活動を支えている。
京陽小で子ども達が扱うScratchはLEGOブロックのようなモノになっているということだ。出来合いアプリのようにはイケてないけれど、逆にアプリに翻弄されることもない。自分で紙を綴じて本を作ったり、模造紙にあれこれ貼り込んで新聞を作るのと同じ事を、デジタルでも自然にやっている。
このテーマで参考になるのは、キルパトリックのプロジェクト法(@ittokutomano さんのブログ参照)。児童の生活経験と連続した探求活動とスキル獲得が保証されないと、付随的反応としての動機付け・論理的思考・自己効力感は生じない。
http://ittokutomano.blogspot.jp/2013/05/blog-post_9.html
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まさにそうだよなーと思う。
リンク先の苫野一徳さんの投稿もめっちゃ参考になる。
さっき書いた「没頭する」とか「作りたいものを作る」とか、「わぁ〜できたー」とか、それを使って紙ふぶきブワァーみたいなこととかね。つながるんだろうと思う。

ところで、さっき紙吹雪作りのとこで「どうやって作りたいものを作るのか」という思考があると書いたが、この思考が行われる鍵は、「作りたいものを」にあるんじゃないかと思う。
だからこそ没頭するし、頭も使うという。

もし、決められたものを作る。
そして、そこへの手順が示されてたら、、、
「どうやって作るのか」の思考はなくなる。

あ。

「作りたいものを…」が鍵だと書いたが、それがなぜ必要なのか、という段階にとっては、「自分が欲しいもの」に限定されないかも。
自分にとって必要か、他人にとって必要か、それは限らずに、必要だと思うのが私であればいいのかな。
「【私にとって】私が必要だと思うもの」だと上記の話だし、
もう少し大人になると、「【世の中にとって】必要だと私が思うもの」とか「【他者にとって】必要だと私が思うもの」になるのかも。
PBLは、後者かな。

要は、”私が思う”ってところが鍵なんだろうし、
で、それを実現するには頭を使う、という。

以前、教育課程特例校制度(←地域単位や学校単位で、学習指導要領によらない教育課程を採用する制度)の調査をしていた時、諏訪市では「相手意識に立つものづくり科」というのをやっていた。
「相手意識に立つ」というところに非常にこだわっていたことが印象的だった。
単にものをつくる技術を学ぶんじゃないんだよね。
【私が】相手意識に立って、【私が】必要なものを理解して、で、それをどのように実現するかを【私が】考えるというところにこだわる。
だからこそ、頭を使う、という。
そこにも通じるんじゃないかと思う。

話が少しずれたけど、何れにしても大事なことは、「私が思う必要なもの」を作ろうとするからこそ、頭を使うんだ、というね。
これって大事よね。

で、上記の「相手意識にたったものづくり」の取り組みが、【特例的な科目】として実現されていることからも分かる通り、一般的に、学校ではこういう事っておこなわれてはいないかなと思う。
「必要なものを作る」の前提は、「作るべきものが限定されていない」ということ。
が、学校で行う場合は、どうしても、見本を示してしまったり、道筋を示してしまったり。

大抵は、「何を取り扱うか」が先に示されていたり、そこへのプロセスも見本が示されていたり。
そのうえで、いかに再現したか、が問われたりする。

そうすると、あまり、「没頭」はないんじゃないだろうか。

「ものづくり」科という名前から示されていたり、冒頭の紙ふぶきの例、それから、豊福さんの投稿にも一部それっぽいものがある事からも分かる通り、「必要なものをどう作るか」って話に本来一番近かったのは、図工や技術なんじゃないかなと思う。
そういう意図って、もともと、あったんじゃなかろか。
でもさ、「好きなもの作っていいよー」って、なかなか無いよね。
「見本があって、そこへのプロセスも示されてて、それをどう実現するか」というパターンだよね。

ま、ま、「そういう段階」もあってもいいとは思うんだけどね。
でも、そこで学んだ技術なりを使って、「作りたいもの作りな」の段階もその後にあって欲しいというか。
いや、「作りたいものを作る」を、先に目標として示して、【その前段階として】、つまり、作りたいものを作るための技術を学ぶ目的として、決められた取り組みをやるって感じか。
でも、そうはなってないよね。

決められたものを作る、というだけじゃね。
単純に言うと、つまんないよ。

なんで、こうなっちゃったんだろ。。。

プログラミング教育もさ、そういう話になる可能性を多分に秘めてると思うんだよね。
「必要なもの」を作るんじゃなくて、「これ作りなさい」が示されてて、そのお手本も示されてて、それってつまんないし、没頭できないし、多分、学びも全然なくなっちゃう。

どうしていつも、「決められたものを作らせる」パターンになっちゃうんだろう。

この辺りの話ってさ、よく、教師文化とか権威性とかの話になりがち。
「コントロールしたい性」みたいなね。
だけどさ、教員ってさ、子どもが何かに熱中して没頭してる姿って大好きだと思うんだよね。
好きにやらせる、とかさ。
自分たちで考えてやっていいよ、とかさ。
好きだと思うんだよね。

なのに、図工や技術も含めてそっちの方向(決められたことをやらせる)に行っちゃうのはなんでだろ。

1つの要因でしかないけど、僕は、「評価」による影響も大きいと思うよ。
評価しなきゃいけないし、それが進学につながるから、客観的に示さなきゃいけないんだよね。
「 客観的な評価×好きにやっていいよ 」はもの凄く相性悪いよね。。。
昨今の「評価」に対する周りからのシビアな目を考えると、これを避けたくなるのは良く分かるよ。
苦しすぎる。

それから、時間が取れないというね。
やっぱり、思いにフォーカスして、で、どうやって作るかを考えて、で、実際に作るという作業は、時間がかかると思うんだよね。
そういう意味で、「教える大変さ」もあるかな。

うぅ。

むぅぅ。

まぁもっと色々あるんだろうけど。

結局、学校からなんで楽しいものづくりが消えたのかってところも考えないと、ね。
そうしないと、プログラミング教育も同じ轍をふんでしまいそうな気がする。
自分としては、プログラミング教育は「作りたいものをいかにして作るか思考」と「作る技術」、両方の話になるといいなって思う。
プログラミング教育に関わる提言に「論理的思考力」とか「創造性」って書いてあるのはその辺まで考えてのものだと思う。
(論理的思考力 × 創造性、かな。この掛け算こそプログラミング教育の肝なのかも)

だけど、これまでと同じ轍をふむと、結果として、「作る技術」だけ、しかも、その真似事だけして終わる、ということになってしまいそう。
作るべきものが示されて、手順も示されて、それを再現するだけという形。
そうはならないでほしいなぁ。
「必要なもの、欲しいものを、どうやって実現するのか」の思考を落とさないで欲しい。
その辺を思うと、評価のあり方とか、時間のとり方も含めて考える必要がありそうだな。

だいぶ長くなってしまった。

もうそろそろ終えよ。

とりあえず、これまで、技術の中で行われてきたプログラミング教育とか見てみたいな。
どんな感じなんだろ。

さてさて。

障子の方は、4枚中2枚でストップ。
紙がよれているという指摘を受けて終了だった。

ま、次もがんばろ。

あ。途中で出てきた教育課程特例校制度の話だけど、調査の結果が本になってます。
よろしければ買ってください。


大桃 敏行 , 押田 貴久 (編著) 2014 学事出版
『教育現場に革新をもたらす自治体発カリキュラム改革』

カリ改革

最後に宣伝というね。笑

ではー。
(先週あたりからPV上がってんだけど、なんでだろ。。。)

「キレイゴト」を言う仕事

僕は、教員の仕事って「キレイゴト」を言う仕事だよな、と思う。

友達を信じよう、とかね。

キレイゴトだ。

でも、キレイゴトだとしても、それでも、「あの人が言うキレイゴトなら、どこか信じてみたい。」そう思わせるような、そんなキレイゴトってある気がする。。。

自分自身、そういう教員でありたいなと思っていたし、これからもそれを目指していきたいと思う。

そういうキレイゴトって、キレイゴトを心から信じて目をキラキラ輝かせながら言うものではなく、キレイゴトでは世の中すまない事を知っていながら、それを背中に感じながら、それでも出てくるキレイゴトなんじゃないかと思う。

わからないけど。

キレイゴトの裏にある事実、それに対する理解、深い洞察、それを踏まえて、それでも出てくるキレイゴト。

そういうものだからこそ伝わる何かがあるんじゃないか、という気がしている。

自分自身、前から感じていたことだけれど、

この2冊を読んで改めて思った。

好きな本。

自分は現場の人間でなくなってから何年もたつけど、

そういう、教員としての生身の自分を思い出させてくれる本。でもある

なぜあの先生は誰からも許されるのか 吉田和夫(2013)
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よくわかる学校現場の教育原理 堀裕嗣(2015)
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教科書を読み直してみようシリーズ① : 新しい時代の教職入門

僕は、教育学に関して基礎的知識が足りないなと思うことがあります。
そもそも学部が教育じゃないという背景もあります。
それに加えて、働き始めてからは、仕事に関わる話はよくする一方、
アカデミックな会話をする機会が減っています。
その結果、重要なワードとか概念を忘れちゃったりするのです。

ま、忘れちゃうような語は無理して思い出す必要ない、
という話もあるかとは思いますが。

でもまぁね、基礎的なワードぐらいは、頭に入れておきたいよな、という気持ちがあります。
そんなわけで、改めて、教科書を読み返してみようと思っています。

第一弾は、新しい時代の教職入門

以下は、かつて付箋したとこ、今回気になったとこを列挙したもの。
メモ的にね、書いてみた。
これだけ読んでも、何のことなのか伝わらないとは思いますが、
自分のために(笑)残しておきます

——————–

教員の職務の特徴
→無境界性、複線性(同時並行、優先順位変化)、不確実性

shave,.,1979
→3分に一回重要な意思決定

感情労働 Harg,,,2000
→認知、感情、行動が深く結び付く
感情がやりがいに繋がる。一方、環状を圧し殺したシャドーワークでの消耗も。

ジレンママネージャーとしての教師
→思いが交錯。背景の相違

授業デザイン
→テーマを設定する、コミュニケーションを組織する、認識を共有する

テーマ設定のために
→(教材をふまえた)願いの明確化、環境をふまえる、こどもの事実をふまえる

こどもの事実
→事前予想、目の前の事実、授業への対応

教師の知識
→PCK授業を想定した知識[ショーマン
→カリキュラム、生徒の理解、教育方法、それぞれに関する知識[グロスマン

授業における教師の役割[吉崎1991
→アクターとしての教師、デザイナーとしての教師、エバリュエーターとしての教師

教育的な働きかけをするための即興的な判断。それが期待される瞬間→教育的瞬間[ヴァンマーネン1991 (教育的契機?

省察の深さのレベル[ヴァンマーネン1977
→技術的省察(目的への手段が効率的か)、実践的省察(目的の再検討)、批判的省察(社会的公正との関係)

アクションリサーチ
→改善を目的とし、改善するための行為を研究対象に含め、問題解決のプロセスを捉え、独自の理論を生み出していこうとする事例研究
・「私は何ができるのか」を問いながら、手続きや解釈を捉え直すので、必然的に自分の価値観が問い直される。秋田市川2001

子どもの心を傾聴するのに必要な物
→忍耐力:言葉が結晶するまで待つ
 ノンバーバルなメッセージに気をくばる

教師がカウンセラーになる上での難しさ(カウンセラーに限らない?)
→個と集団のジレンマ、評価する側される側という上下関係、自分がなんとかしたいという使命感

浦野2002
→同僚生は学校改善の重要事項

同僚生の発展形態(little1990)
→話す見る、援助、共有、協働

教職の専門性
:教員の地位に関する勧告 1966
→研究によって維持獲得される知識技能が必要
 (専門性必要)→専門家には自律性与えるべき
 (自律的であるべきだけどなんでもいいわけではない)→倫理綱領・行動綱領必要・・・日本は1961改定の日教組倫理綱領しかない

:教員の役割と地位に関する勧告 1996
→多様な情報共有者やパートナーを子どもの学びに即して調整する存在

教員の思考様式[佐藤他1990,1991
→①即興的思考②状況的思考③多元的思考④文脈化された思考⑤実践的思考(思考の再構成)
背景:子ども認識、教養、教育観

グローバリゼーションと教育
かつての教育のエネルギーは「国民を生み出す&大量生産用労働者を生み出す」
→グローバリゼーション=国の枠組み弱・求められる人間変化で多様に
→変化必要(ちょっと今より古い話かも)

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以上。
上にも書いた通り、これだけ読んでもわけわからんと思いますが。

しかし、今回、改めて思ったこと。

教科書って、いいよねぇぇ。
重要な論文やキーとなる概念を一通り整理して並べてくれてるし、勉強になる。。。
いまさら、と思わずもう一回読んでみるのって結構いい。
当時はなんとなく耳から入っても「ふーん」ぐらいだったものが、
今ならいろんな話と結びついてきたりする。

例えば、省察の深さの話。
リフレクション系の先生たちが話題にしていることの中に
【個別の目的にとってどうなのか、その目的は自分にとってどうなのか、それは社会にとってどうなのか】
と言ったような話があった。

改めて読むの、いいよね。
そういや、来年からの講義のネタにもつながりそうだし。

ということで、今後もたまに、教科書系を読み直してみようと思います。