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スウェーデン

3月上旬にはスウェーデンに行ってきました。

幾つかの学校を見てきましたが、「おもしれーなー」と思った場面の写真、あげときます。

それぞれどんな風に気になったかはまたいずれ書きます。

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そんでもって、今回の視察のラストでは、ストックホルム大でTeacher Educationについてプレゼンをしてきました。

英語になっても、相変わらずろくろを回しておりました(↓左上)。

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今回の英語プレゼンでちょっと思ったのは、意外と「主語で迷う」ってこと。

内容はスライド見たらだいたいイメージできるんだけど、それを英語で話そうとした時、自然に主語が出てこなくて焦りました。

そのあたり、いつかまた英語プレゼンする時は気をつけたい。。。

今回の視察については、ストックホルム大でも記事にしてくださったようで、↓のような形になっていました。

http://www.su.se/lararutbildningar/l%C3%A4rarstudent/studera-utomlands/utbyte-med-teikyo-universitet-1.326601

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フィンランドの学校を視察して感じたこと : ちょうど1年前に。

もうずいぶん「書く書く詐欺」を続けてきたこのネタだが、一年がたちそうなので、さすがにまとめてみようと思う。

フィンランドに訪れたのは、2016年3月。ちょうど1年前。ヘルシンキ及びユバスキュラの数校に訪問した。

そこで印象に残ったことを書いておきたい。私は北欧の教育を専門とはしていないし、数校しか見ていないので、偏っている可能性もあるが、その時に自分が感じたこと、考えたことをそのまま書いておきたい。

1、【どのように学ぶか、を子どもたちに預ける】

まず、北欧の学校に行って最初に驚かされるのは、教室内にソファがあったり、ラグがあったりすることだと思う。

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廊下にもそれは溢れている。(↓左の方に写っているのは、いわゆる「人間をダメにするソファ」みたいなやつね)

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僕自身も初めて北欧に行った時(2年前)にめちゃめちゃ驚いた。当時は、単純にリラックスするためかなぁとか思っていたけれど、今回は同行した中田先生や坂田先生と話す中で、もう少し違う印象を持った。今回、「アクティブラーニングの促進」とか「アクティブラーナーの育成」というテーマをもって視察に行ったことも、背景にあるのかもしれないが、今回持った印象は「学びたい場所で学ぶ」ための環境を用意している、ということだ。主体的に学ぶうえでは、どのように学ぶか(例えば場所)も、出来うる限り各自に任されているのだと感じた。椅子に座って学ばないといけない、なんてことはない。ソファで学んでもいいし、床のラグの上でもいいし、時には、体育館のマットの上でも、教室の外の階段の踊り場でもいい。

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学ぶ場所は、その子自身が選んで決めればいいのだ。それがその子らしい学び方なのかもしれない。

さて、その「学ぶ場所」と同様、子どもたちに預けられているように感じたのは、「授業へのやる気」である。つまり「授業にどのくらい取り組むか」ということでさえ、子どもたちに預けられているように感じた(言い過ぎかな…)。

子ども達を見てみると、集中の度合いは(少なくとも見た目には)かなり差異がある。やる気なくぼーっとしてる子もいるし、友達とのオシャベリに夢中の子もいる。例えば、クラス全体としては「錯覚」に関するワークをやっている中であっても、ギネスの本を読んでいる子もいた(↓の写真)。

そのすべてのあり方が許されていたように思う。

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つまり、【どのように学ぶか】、という判断は子どもたちに預けられており、その中で許される選択肢としては、「適当にやる」「乗り気でない」というのも「アリ」とされているように感じた。

2、「信頼」とは

とすると、日本で育って日本で教員として働いてきた自分からすると気になるのは、やっぱり「勉強遅れちゃう子が出てきちゃうんじゃないの?」ということ。「やらない子にも「やれ」って言わないわけでしょ。そしたら、勉強全くしない子、出てきちゃうんじゃないの?」と。そのことが気になってしまい、ある場面で先生に直接その疑問をぶつけてみた。

答えはこうだった。私の懸念を否定したうえで、その先生は次のように言った。

「子どもたちの学ぶ力を信頼している」

この言葉を聞いて最初に思ったのは、「イヤイヤ、信頼してる言うて、学べてないやん」てこと。「それは信頼という名の放置やん」てこと(なぜか関西弁)。正直、そう思ってしまった。

でも、次の言葉でそれが勘違いだと分かった。

「誰にでも関心のもてる分野は必ずある。」

・・・なるほどね。すべての教科、すべてのタイミングで「やる気出てるよー」って姿勢を見せる必要はないわけだ。どこかの場面でやる気出てない子がいることを、まるで「学ぶことが出来ない子」がいるように捉えてしまったのは、完全に日本の考え方を前提にしているな、と。「関心・意欲・態度」としてモチベーションや学びに向かう姿勢を常に評価し続ける日本のやり方で言えば、その子は低い評価になる。

でも、「どこかの分野でしっかり関心を持って学べればいい」とするならば、別にやる気が出ていない一瞬があっても、まったく問題ではない。むしろ、「取り組み方を各自に任せる」とすると、それぞれの子のなかで分野によって関心にバラつきがあるのは、当然なわけだ。。。

3、【学びに火がつく】

さて、さっきも書いたように、一瞬一瞬で見ると「やる気ないな」を感じる子がいる一方で、逆に、集中している子は、ものすごーーく真剣に活動に取り組んでいた。どういう言い方をしたらいいかわからないけど、「学びに火がついた」感じ。

例えばこの子。

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この授業で取り扱っていたのは、光の屈折。特に、凸レンズを通すと光線が屈折して、焦点に集まるってやつね。それを体験出来るレーザー光を使ったキットがあったわけだけど、これに対する取り組み方が、すごかった。ズーッとレンズを動かしながら、色々とイジっていた。他の子にしゃべりかけられても、受け答えは上の空で、ズーーーーっと何かを試していた。レンズを前や後ろにやったり、斜めにしたり、凹レンズと組み合わせたり…。真剣な顔で取り組んでいた。(顔を見せられないのが残念)

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この子の学びの心には、確実に火がついていたと思う。

そういう場面は他にも。例えば、うえで書いた、「錯覚」に関する授業でも、ギューっと集中した様子で、本をいろんな角度から見たり、話したり近づけたり、色々試している子がいた。

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こういうタイミングがくることを、先生たちは待っているのかもしれないなと思う。つまり、その子その子なりにあらわれる【学びに火がつく瞬間】を待っているということ。

そして、「その瞬間は誰にでも来る。」「誰にでも、関心をもてる分野はある。」これを【信頼】と言っているのだという気がした。信頼しているからこそ、待つことができる、と。

一瞬一瞬だけ見て切り取ってしまうと、一部の子しか高い集中をしていないようにも見えるけれど、それぞれの子に異なる「火がつく瞬間」があり、そして、トータルで見ると、誰にでもその瞬間は訪れる。そして、それを信頼して、待っている。そういうことなのかもしれない。

4、主体的に学ぶ

これって、もしかしたら「学ぶ場所」や「学ぶ姿勢」を強制し、常に「適切な態度」を示すことを求めていたら、逆に出会いにくい瞬間なんじゃないだろうか。自由に選択できるからこそ、やる気起きないように見える瞬間も生じるけど、逆に、関心に引っかかった時の学びの爆発力もすごいのかもしれない。

あえてシンボリックに言えば、「やらない」という選択肢も与えられるからこそ「やる」という選択肢を主体的に選んだと言えるのかもしれない。

「やる」しか選択肢がない場合には、たとえそれを自分で選んだとしても、主体的に選んだとは言いづらいんじゃないだろか。

よく言う「主体的にやれ」と言ったら主体的でない、に近い。

子どもたちに、常に一定以上の「学ぶ姿勢や学ぶ場、学び方」を求めると、ヤラされ感が漂うのはご存じの通り。そういう状態に慣れてしまうと、こういう瞬間(学びに火がつく瞬間)がかえって訪れにくくなる可能性はあるだろう。一瞬一瞬ではそれなりにみんな学んでそうに見えるんだけど、「自ら選び取って学びに取り組む」という体験や、そしてなにより、【自分なりの学び方で何かを獲得することの喜びや興奮】からは、逆に、遠ざけてしまっている可能性もある。

そんなことを感じたり考えたりした。

5、教員の関わり

さてさて、↑にも書いたように、「やらない」という選択肢さえ許されている、と書くと、「教員は何もしない」かのように受け止められてしまうかもしれない。つまり、言いたいことだけ言って放置。あとは興味がある子だけ考えてね、みたいな。(実際、帰国してからこの視察の感想を話した時に、そういうコメントをもらうことがあった)。

でも、そういうことではない。

子どもの興味や関心を高めるための働きかけは、すごく丁寧に力を入れておこなわれている。つまり、ルールやしつけ、あるいは評価を通じて前を向かせようとするのではなく、授業の内容や教材、デザインで子どもたちを惹きつけようとしていたような感じ。

特に、「問い」のデザインは、すごく大事にしているんではないだろうか。例えば、先ほどの「学びに火がついた」子がいた、光の授業の「問い」は、下の図に表した感じ。

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つまり、どうすれば、平行な3本の光線を、1本の光線にまとめられるか、というような感じだったと思う。上の図でいう[?]にあてはまる凹レンズ・凸レンズの置き方を考えるというもの。・・・だった気がする。これを考えるために、あの子は、ズーーーッと真剣に考えていたのだ。

また、他の授業でも、モラルジレンマを扱かったり、歴史映画を作成したり、目の錯覚が起きるのはどんな時か、を考えたり。。。面白そうな問いが多かった(1年経って忘れてしまった…)。学び方を預けている以上、この問いの質によって、子どもたちの関心、学びのエネルギーには、相当な差異が出るんだろうし、だからこそ、「問い」にこだわるんであろう。

あともう一点は、子どもに対するアセスメント。ワークをやっているタイミングでは、適当に机の周りをまわってるように見えて、色々と先生たちは働きかけていた。現地語がわからないのでおそらくだけど、その言葉かけは「もっとチャンとやりなさい」とか、そういう感じではなさそうに見えた。

例えば、高校の英語。エッセイの授業。

机の周りをまわり、生徒の様子を見ながら、時々教師卓に戻って、いろんな資料を持ち出し、書画カメラで全体に見せていた。生徒たちの間で出ている話、生徒たちの様子に応じて、必要な資料を判断してピックアップして見せている感じだった。

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他の授業を見ても、なんとなく、こういったことは重視されていると感じた。つまり、「学び方を預けたうえで、興味関心を惹きつけるべく、問いをデザインし、アセスメントに基づいて即興的に関わる」。そんな風に感じることが多かった。

6、付随するポイント

以上のような点を感じたというのが、前回のフィンランド視察のポイントだけど、↑のような授業を展開するうえでの条件というか、付随して捉えなきゃいけないポイントはいくつかあるなと思う。ここではそれを書いておきたい。

(1)教員の力量の影響が大きい

うえで触れた授業は、特に、「うまくいっているな」と感じた授業である。で、実は、逆に「うーーん」と思ってしまったものもある。授業の質の差異(僕が思う質ではあるけれど)はかなり大きい感じがした。学び方を預けるからこそ、教員の力量の差がダイレクトに出るんだと思う。つまり、さっきも書いたような、「問い」をデザインする力や、アセスメントにもとづいて、即興的に関わる力。そういうものの影響がかなり大きいと思う。

その意味で、教員の力量形成はそうとう重要だと思う。
が、このエントリーで力量形成についてまで書くと、また倍くらいになっちゃうんでそれについてはまた別のエントリーで。

(2)就学前教育について

上にあげたような授業を受け、自ら獲得していく学びに取り組むうえでは、各子どもにもそれなりの素地が必要なんだろうと思う。就学前教育(というか、幼稚園?)から小学校にあがる段階で、一定の基準に達していないという理由で、それなりの割合の子が進級を1年遅らせたりしていると聞いた。僕が訪れた学校だけの仕組みか、一般的なのかはわからないけれど…ただそこでは、(日本でいう)年長さんを2回やるというようなことは、珍しくないようだった。

日本的な視点から言えば、「小学校前に留年?」とか思ってしまって、暗い印象を持ちがちだけど…でも、それは同年齢は同学年という前提を持ってみているだけで、そもそも初めからそれ(同年齢同学年)が念頭にないのなら、気にならないのかもしれない。

↑にも書いたように、フィンランドの教育には、「待つ」ことを大切にしているような文化、「待つ」ことが可能なおおらかさが溢れているので、そういう意味でも不自然ではないのかもしれない。

(3)社会全体のおおらかさ

これは完全に推測だけれど…

「待つ」とか「信頼」を大事にし、じっくりすすめることが許されるおおらかさは、学校だけで醸成されているとは考えにくいんじゃないだろうか。例えば、社会全体が馬車馬のように働いて、生き馬の目を抜くような競争にあけくれて、お互いに蹴落としあうような状況のなかだったら、学校だけがおおらかにできるということはないだろう。

ちょっと前にベーシックインカムも話題になったけど、国全体にある、社会への信頼みたいなものがベースにあるんじゃなかろうか。日本の社会の競争が激しいかはまぁいろんな味方あるでしょうが、少なくとも、●●したら負け組、とか、●●したら人生おしまいみたいな、そういう悲壮感は高いように思う。フィンランドの場合、そういう緊張感に満ちた空気は、学校に限らず薄いんではないだろうか(と、想像する)。

だからこそ、学校が「待つ」ことも出来る。大人が「待つ」ことができる。そんなような感じなんじゃないだろうか。

(4)日本にとって

(3)みたいなことを書くと、結局、「フィンランドの教育はフィンランドだからこそできるもので、日本には関係ない」みたいに見えてしまうかもしれない。国の規模やら、国が目指しているところもおそらく違うし、そういう意味では、学校の使命も違うだろうし。そして最も違うのはクラスサイズの大小かもしれない。
けれど、だからといって「アッチだからこそできて、コッチではできっこない」として、バッサリしてしまう必要もない。単純に、「何が学べるか」なんだろうと思う。

いろんなポイントはあるだろうけど、例えば、途中で書いたような「学び方を預ける」場面は日本でももう少しあっていいんじゃなかろか。特に、総合とか。調べ方も、その結果のまとめ方も、発表の仕方も、全部教えてその方法でやらせる場合が多いけれど(それが必要な場合もあることは重々承知だけど)もう少し、その取り組み方等は子どもたちに預けてもいいのかもしれない、と思う。

もっと単純な点で言えば、教室空間はもう少し自由にできるんじゃないだろうか。フィンランドほどにできるかどうかは別としても、「学びたい場所で学ぶ」を実現できるような工夫を【少し】やってみるとか、そういうことって大事かもしれないと思う。。。

というわけで、長々と書いてきたわけだけど、振り返ってみれば、このフィンランド視察はいろんなことを考える機会になった。

日本を離れて、日々の仕事を離れて考えるタイミングってのは大事だなと思う。

もっと細かいことで色々感じたことはあったけど、とりあえず今回はここまで。

来月にはまた北欧(スウェーデン)に行くんで、また色々刺激を受けられると思うと楽しみだ。

【参考】

●1、視察行く前のブログ
●2、「海外」カテゴリ

NERA2017で発表します

NERA2017の査読(?)通りました。

査読と言えるほどしっかりしたものなのか正直わからないけれど、

abstractがacceptされたことは間違いない。

「こんなもん査読っていうほどじゃないよねーたぶんフリーパスだよねー」とか昔はナメたこと言ってたんだけど。

去年、自分自身が落っこちたことで、「一応ハードルがある」ことを自ら示してしまった。

そんなわけで、今年はそれなりに緊張しながら結果を待っていた。

ら、先日、無事つうかしたと連絡が来た。

よかった。

 

デンマークだ。楽しみ。

嘘とかデマとか

ここんとこ、海外の教育制度に関わる2つの記事が話題になっていた。

一つは、 フィンランド教育4つの嘘とホント

もう一つは 大御所・大前研一さんのデマ記事に全力で反論、訂正します

前者はタイトルからも分かる通り、フィンランドの教育に関するもの、後者はドイツの教育に関するもの。

どちらも、実際にフィンランドやドイツにいた人、いっていた人のブログのよう。

海外の教育ってさ、フィンランドもドイツも、そして、オランダやらアメリカやらも、結構、理想化して捉えちゃうとこあるよね。。。

理想的な教育が、そこには、ある。

みたいなね。

結果、実態以上に極端にとらえてしまう、というね。

わいも気をつけねーとにゃあ。

 

韓国入試事情の話を聞いて:ハイパーメリトクラシー、ペーパーテスト改革、自国史などなど

今日の非常勤@専修は、ゲスト講師の方をお呼びしての授業。
大学院同期のイさんに、韓国の教育事情について話してもらった。
そこで聞いた話と、感じた印象をここに記しておきたい。

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 一言一句、細かいニュアンスまでしっかり聞いたいたわけではないので、ゲストの方の印象なのか、エビデンスのある話なのか、僕自身掴みきれてない部分もある。一般論かどうか、あるいは、韓国の人たちの共通認識として良いのかどうかは迷う部分がある。

とはいえ、ひとまず、記しておきたい。

▼ハイパーメリトクラシーと推薦入試

 韓国では、ハイパーメリトクラシー重視の傾向がどんどん強くなり、推薦入試の割合がかなり高まっているらしい。トップ校(例えばソウル大学)でも半数以上は推薦。
 日本では、東大が最近初めて推薦を始めたという状況。程度にはかなり差があるものの、ペーパーテストで測れない部分を重視したいという意味では共通しているとも言える。

▼ペーパーテストの変化

 逆に、一般入試においても、ペーパーテスト入試の重みはどんどん下がっているとのこと。これには2つの見方ができそう。
 一つは、ハイパーメリトクラシー的なもの(内心・面接)の重視による相対的な低下。ペーパーテスト(全大学共通。大学修学能力試験)で問える学力の重みはどんどん低くなっているとのこと。結果、ペーパーテストは「基礎学力があるかどうか」に特化しており、問題が非常に簡単になっている。
 もう一つは公平化を目指したもの。これまで良く語られてきた通り、韓国では受験競争が過熱し、私教育費(塾代など)がかなり高まっていた。そのため、経済格差がそのまま教育格差につながるという傾向があった。そこで、2011年から、公平化を目的に、EBS(教育テレビ)の内容を試験の基準にすることになった。EBSは格安で誰でも見られるため、それが問題のもとになれば、あまり条件に差がつかないという発想。日本の教育テレビを見ていても分かる通り、それほど複雑な内容は扱われない。かつ、放送の内容そのままの問題も数多く出題されているのが現状のよう。結果、簡単すぎて、あまり差がつかなくなり、選抜におけるペーパーテストの重みが低くなった。
 前述した因果とは逆で、むしろ、ペーパーテストで差がつかなくなったことが原因で、ペーパーテスト以外の評価方法の重みが高まった、(例えば、推薦入試枠が増えた。内心の重視)との説もある。

 ちなみに、ペーパーテスト軽視とはいえ、その対策はやはり必要。満点を取り、他人と差がつかない成績を取れる程度の対策は求められる。難しい問題を解けるようになってプラス点を取り、差をつけようという発想ではなく、簡単な問題をミスらないようにして、マイナスを生まないという対策。

▼内申と格差

 一般入試の中でも重み付けが高まったのが、内申や面接。「リーダーシップ」などの評価項目があり、例えば、ボランティアをどれだけやったか、といったことが評価されるようになった。一部には、ボランティアをやったという記録を金でどうにかするということも出来るようになり、むしろ、経済状況による格差は広がったとの噂もある。。。ハイパーメリトクラシーがそもそも環境要因に左右されやすい、格差を固定化しやすいという批判はあったが、こういった裏ルートへのアプローチという意味でも機会の格差は大きいのかもしれない。

▼ペーパーテストの方向性に関する日韓の差

 日本では、高大接続改革等で、論理的思考力とか、アウトプットの力といったものをペーパーでも問うていきたいという方向性がある。(例えばセンター試験改革など)
 一方、韓国はそういった方向にはいかず、ペーパーテスト型入試にある意味見切りをつけて、割り切って、「基礎学力があるかどうか」に特化していると感じた。

▼自国史の必須化

 ここまでの流れとは異なるが、自国史の話。
 韓国では、韓国史が、大学修学能力試験の中で必須になるらしい。他の科目は何を受験するか選択できるが、韓国史は必ず受験しなければならなくなったとのこと。大学に行くためには、韓国史を学ばなければならない。今年から。
 日本では、日本史の近現代史が授業として必修化される予定。ただし、これはセンター試験等とは関係なく、授業の必修化。
 ナショナリズム重視の時代において、歴史認識で対立する両国が自国史をほぼ同時に必須化する、というのはなかなか興味深い。どちらも、もっと自国史を大切にしようという発想。日本にいるイメージでは、韓国では自国史を昔からものすごく徹底して教えているイメージがあるが、韓国内ではそういう評価ではなかったらしい(やはり、「若いもんは我が国の歴史も知らん。教育がなっとらんからじゃ」的な評価)。
 一方で、そのアプローチが、入試の枠組みを通じて、あるいは、授業の枠組みを通じて、という違いがあるのも面白い。日本だと、センター入試の方式を変えるのは世代間の差とか生みそうで慎重になるし、国が介入しにくそう。そのあたりガッとやっちゃうのは、韓国の強みでもあり、危うさでもあるような気がする。

 


 

 以上が、今日の話と、それを聴きながら感じたこと(混在してまーす)。
 欧米なり、日本と全く違う国について学ぶのも新たな発想に気づくので面白いけれど、東アジアの国を見ると、どこか地続きな感もあり、逆に、違いが際立って見える気がして面白い。

僕自身、すごく楽しく話を聞かせてもらった。

同期つながりに感謝!!!