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教職大学院生(現職院生)が研究をやる意味は何なのか

教職大学院生が課題研究(修士研究のようなもの)をやる意味は何なのか
すでに現職として働いている社会人が,研究者になるわけでもない(なる人もいるが)のに研究をやる意味は何なのか

それを整理して語る機会をいただいたので,せっかくなのでブログに記録を残しておくことにしました

そもそもの前提として,教職大学院には様々な現職院生がいる

自ら希望してきた人と,希望したわけでもなく,配置されてきた人がいる。
向き合いたい課題を自ら持っている人もいれば,やるべき課題を誰かから決められて任務として与えられている人もいる。
この期間を通じて何らかの問いや課題にとことん向き合いたいと思っている人もいれば,そんな気もなく,突然,「課題研究」とか「論文」に無理やり向き合わされている人もいる。

それぞれの後者の人が,少なくとも一定数はいる。

加えて,我が大学院の課題研究の負担はそれなりに重く,100ページかそれ以上のものを書く。
教職大学院の中でくらべれば,扱いが重い方(だと思う)で,修論に近いかもしれない。

なぜこんな大変なことをやらされるのか,という思いを持つ人はそこそこいる。
であるからこそ,その意味はどこにあるのか。
そこをきちんと考える機会を持たねば,消化不良のまま重たい荷物を背負わされる(背負わせる)ことになってしまう。

そんななか,課題研究を行う「意味」のようなものを語れる機会をいただいた。

正直,突然の機会だったので,最初は気乗りしなかった
その担当が降ってきたのが,実施の2日前(プチ愚痴)
その前の会議では主担当ではなかった(プチ愚痴)
むしろ,重たい話題で,押し付けられたんじゃないかという気さえしていた(プチ愚痴)

そして,私自身は研究の話をするのが苦手である。なぜなら,研究が下手だから。笑(プチ自虐)
その講座の前日にも「町支くん,ロジックが通ってない」というお話をいただいたばかり。笑(プチ自虐)

そんな私が研究の話をした(プチ自虐)

でもまぁ,結局,やってみた感想としては,やってよかったと思っている

院生の現状は,基本的に,「研究って何?」という状況。
コロナでこれまでまともに研究についての話ができていない。
学校で行われる校内研究のイメージで課題研究をとらえているひとも多い。

というわけで,まずは,研究全体の構造の話。
そして,ロジックの話。ロジックの苦手な私がロジックの話をした。
問いへの「絞り方」の話。
実践や調査の話。評価や分析の話。
途中途中で,自分の問題意識を語ってもらいつつ,それを「研究」にしていくのはどうするのか,そんな相談会っぽい機会も入れてみた。

現職院生の方々からはいろんな疑問が出た。
これまでの相談の機会でもあったのだけれど,「やりたいことを自由にやらせてくれる機会」だと捉えている方も多い。

もちろん,それはやればいいのだけれど,課題研究という枠組みのなかで行うことは,それとは異なる。
自分の「やりたいこと」を,「社会にとっても意味のあることか」「理論的にも意味のあることか」という視点で見つめ直すのは,結構苦痛だ。
私自身,大学院に行った当初,そこで苦しんだ。

大学院の他の先生方のお力も借りながら,そんな思いを受け止めつつ,研究の意味の話に移行していった。

「この研究をすることが皆さんにとってどう言う意味を持つか」について考える機会をとった。

いろんな話は出たが,「自分のやりたいと思っていることを,他人にとっても納得できる形で伝えること」という語りが印象的だった。

もちろん,制度上の意味もあるし,これまで言われてきたもろもろもあるけど,一年半見てきて私なりに思ったこと・伝えたこと(伝えたかったこと)は以下のようなことだった。

=====

①<研究の前半で経験することは>自分のやろうとしていることが…

・世の中から見ても重要か
・これまでに行われてきた実践や研究の視点から見ても重要か
・(自分だけでなく)自分の身の周りの状況から見ても重要か

を,何度も何度も何度も何度も検証すること

>少し抽象的に言えば 自分の踏み出す一歩が意味のある一歩なのかを多様な視点から検証する こと

=====

②<研究の後半で経験することは>自分のやったことが…

・本当に意味や効果をもたらしたのか
・自分の主観だけでなく,他の視点から見ても意味や効果をもたらしたのか

を,検証していくこと

>少し抽象的に言えば 自分が踏み出したつもりの一歩が,本当に踏み出せていたのか,そして本当に意味があったのかを様々な方法で検証する こと

=====

③研究する経験は,どんな意味を持つのか。
(町支なりの考えです。これから皆さんと一緒に考えていけたらと思っています。)

【我武者羅に一歩を踏み出していく】ことも大事です

でも,【意味のある一歩を踏み出していく】ということも大事です。

この場では,自分とも社会とも向き合いながら,【自分の一歩】を徹底的に検証して,意味ある一歩を踏み出すための方法や実践を経験(=研究)します

今後の人生やキャリアにおいても(研究できる/できないはあっても)その姿勢や見方を持っていること自体は皆さんにとって有意義だと考えています

=====

というようなことをお伝えした。

授業後に何人かの院生が話に来てくれたので少しお話した。
その感じでは,深く受け止めてくれた人もポカンの人もいそうだったけど,少なくとも研究のことを考えるきっかけを与えられたようではあった。

最初は,プチめんどい気持ち(あくまでプチ)だったけど,一度このことは自分の中でも整理したいと思ってたので良かった。

人によっていろんな視点や意味や言い方はあるだろうけど,自分なりに腹落ちできるものは自分として持っておきたかったので,それを考える良い機会になった。

そして私自身も,この考えを捉え直し続けながら,現職の先生達と関わりながら,生きていくんだと思うし,そうやって生きていきたい

「教員の学び」は今どうなっているのだろう。これからどうなっていくのだろう。

「教員の学び」はどうなっているのだろう。

「正直それどころじゃない」っていうのが本音かもしれない

課題の採点,明日の授業準備,三密を避けて行事を行うための話し合い。
いろんなものが詰まっていて,教員の学びのための時間も余裕もないかもしれない。

一方で,「今こそ必要」とも言える。

変化に対応するための「教員の学び」が散々言われてきたが,
その変化が想定もしない形で訪れた。
とはいえ,変化させられたのは形式だけで,
例えば,主体性をいかすことや,学習者を中心にすえた取り組みといった
本質的な変化は起きていないかもしれない。
だからこそ,「教員の学び」が必要とも言えるかもしれない。

もっとシンプルな意味で言っても,
新しいやり方を単純に身につけるための学びは,
必要性が高まっているかもしれない。
例えば,zoomの使い方とか。
改めて考えてみれば,そういう「せざるを得ない学び」に時間を取られて,
教師としての感じ方・考え方,あるいは,「センス」のようなものが豊かになるような
そういう「じっくり学ぶ・深く学ぶ」ことは後ろにおいやられているかもしれない。

一方で,学びの「きっかけ」はむしろ豊富かもしれない。
新しいやり方をするときにどこに力点をおくか,
何に違和感を感じるか。
それは深く考えるきっかけになりうる。

さっき言った「せざるを得ない学び」も,
「もっと学びたい」「●●を目指したい」という前向きな学びに
つながるかもしれない。

色々ありえると思う。

ウィズコロナの今の「教員の学び」はどうなっているのだろう

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そして,このあとは,どうなるのか。

学びに対するモチベーションは,これまで以上に二極化していくかもしれない。
その必要性や意義を感じていた人は「今こそ」と思うし,
あまり必然性を感じてこなかった人は「それどころじゃない」と思いそう。

学びの意義は感じながら「今は無理」という人もいるかもしれない。
でも,そういう人はその状況の中で,無意識に学んでいるのではないか。

そんな気がする。

きちんと時間をとって振り返りをするとか,校内研究でコメントをもらうようなことは
なくても,変化の中で感じた自分の感情一つ一つを噛みしめて,
次の1日にいかしているかもしれない。
日常の中でのリフレクションや経験学習のような。

そもそも,学びのあり方は多様だ。

校内研究のような組織的な,意図的な機会もあれば,
同僚性の中で日常的に学ぶこともある。
個人としても,本を読む時間をとったり,振り返りの時間をとることもあれば,
日常の中でぐるぐると経験学習のサイクルを回しているうちに
学んでいることもあるかもしれない。

いろいろな変化がありえるだろうけど,ひとつ思うのは,
惰性で行われてきた取り組みは,淘汰されていくように思う。
「形骸化しているとみんなが感じてきたけどやめられなかったもの」が,
やめられる状況になっている。
少なくとも吟味の対象にはなる。
いきなりやめちゃうということもあるだろうし,
やめないとしたら,どんなやり方をするのか,何を目指すのか。
そういう検討にいくところもあるだろう。

ちょっと大雑把になっちゃうけど,

学ぶということは気づくということだし,
気づくということは,今やこれからが変わることだと思う。

僕自身は,先が見えにくい時こそ,つまり,今こそ教員の学びが重要だと思っている。
これからを考えるためにも,学びは不可欠だと思っている。
ただし,その質はかなり問われる。
つらい今だからこそ,未来の希望につながる学びを。。。

その意味でも,今はどうなっているのか。これからどうなっていくのか。
そういう現状把握やこれからの見通しも持ちつつ,
時間のあまりない中で,質の高い学びを個人でも組織でも実現していくにはどうしたらいいのか。

そういうことを自分としても考えていきたいと思っている。

教育行政教育とか、教育政策教育とか、そろそろちゃんと考えなければならない気がする。

今年度、ありがたいことに教職大学院の学卒院生(いわゆるストマス)の全員必修の授業をやらせていただいている。科目的には、全体のカリキュラムの中で言えば、教育制度論×教育史のような扱いである。

教育史は学部でも扱っているし、教採の勉強でも扱うので、正直言ってその細かい内容には、大して重きはない(個人的見解。個人的に怒られるわ)。それでも教育史を(特にカリキュラムの最初に)学ぶ時間は非常に重要だと考えている。

その理由は、「今を疑う」ことにある。

例えば、学校に子どもが通ってくることは今は「当然」のこととして受け止められることが多い。もちろん、不登校やホームスクーリングはあるが、それらは「じゃない方」として扱われがち。しかし、義務教育制度が出来た当初は、箱や決まりはあっても、家庭内労働の働き手である子どもは学校に来なかった。

「じゃあ、どうして学校に来るようになったんだろう」

この疑問は実際に院生から出たものであるが、非常に重要な気がする。今の当たり前には、当たり前になる契機があり、当たり前になった背景がある。しかし、その前は、その当たり前は存在していない。「その前の状態」や「契機」「背景」を考えた時、今のその当たり前はどう見えるだろうか。そして、これからはどうなっていくのだろうか。そういうことを考えるきっかけにしたい。

この時間を大切にしたいと思う、もう一つの理由は「制度を疑う」ことにある。

この時間では、教育史のなかでも制度を扱っている。そういうわけで、上記の「今を疑う」は、必然的に「今の制度を疑う」になりがちである。重要なのは今の制度を否定することではない。今の制度を前提としてとらえず、なぜそうなっているのか、そもそもの目的はなんなのか、あるいは、どういう思想にもとづいて作られているのか、を考えることである。

得てして、教職大学院は現状の制度とか考え方を前提に物事を考えがちである。課題研究(修論的なもの)の内容も、「学習指導要領では」とか「●●計画では」といった現状の行政方針や制度を根拠として始まるものが多い。そして、それは必ずしも間違っているわけではなく、行政のお金で来ている現職院生には逃れがたい「しばり」でもあり、また、即戦力を期待される学卒院生にとっても逃れがたいものである。

しかし、だからこそ、制度を骨太に理解する必要があると考える。制度を前提にして、鵜呑みにしてしまいだからこそ、「まずは」疑うことを通じて、考えていく必要がある。
将来的なことを考えても、制度を鵜呑みにしているだけでは、制度を解釈することが出来ない。解釈することができなければ、(現場で)自分の学校の文脈で運用することができない。それでは、ちょっとした変化にも対応することができない。
だからこそ、「まずは」疑ってみる。例えば、現状の学習指導要領がどうなっているのか、も大事ではあるのだが、どのような社会背景からそうなっているのかを考えることの方がより重要であり、そもそも、学習指導要領が学校のカリキュラムを縛っていることをどう考えるのか、そこから始めることが重要だと僕は思う。

そのきっかけとして、この授業の時間を有効活用したいと思っている。

こうした「制度を疑うこと」と「制度を骨太に理解すること」のその先で、できれば学生たちにもそうあって欲しいなと思うのは、「どういう社会を実現したいか」という自分なりの考えを持ってもらうこと。

こうした姿勢が重要だと思う背景には、僕がこれまで出会ってきた力ある先生方の存在がある。そういう先生たちは、みな、「どんな社会であって欲しいか」を自分の言葉で語っていた。学習指導要領で言われているから、でもなく、SDGsの中でそう語られてるからでもない。「自分がそういう社会であって欲しいと願うから」である。中学校の教員のころに出会ってきた先生もそうだし、マナビラボで取材してきた先生方をみても、そういう方が多い。

そりゃそうである。やっぱり目の前の子の「今」や「数年後の受験の時」だけでなく、その子の「長い人生」が「幸せに満たされること」を考えるのであれば、「社会がどうあって欲しいか」「どうなりそうか」という視点は欠かせない。そして、それが自分の行動レベルに反映できるようになるには、行政文書で示された未来ではなく、そこに書かれたことも十分にふまえたうえで自分の言葉で未来の社会やその中での教育を語ることだと思う。

そして、そうした視点は、(声に出していうかは別として)キャリアの初期から必要だと思う。このように思うきっかけになったのは、今回のコロナがあってからだ。校長先生になる人や、教育委員会で働く人の中には、(良かれ悪しかれ)そうした大きな視点を持った人は多少いると思う。しかし、今回のことで、こうした姿勢はもっとたくさんの人、もっとキャリアの初期の人にも必要だと思うようになった。

なぜなら、行政や制度を前提にして、そこからしか動けない人は、現在のような状況(行政自体が揺らいでいる状況)では何も出来なくなるからだ。あるいは、逆に、他人の行政批判に同調しつつ、「できることさえやらない」という状態になってしまいがち(ように見えた。尚エビデンスはない。)だからだ。

むしろ、実現したい社会があって、そこにつながる教育があれば、政策や行政は、どうすり抜けるか、あるいは、どう活用しようか、という話でしかない(ちょっと言い過ぎかも)。それ以外の部分は自前でやっていくのが、自然。でも、実際はそうではない。↑↑のような状況になっている方のほうが多かった気がする。

そのような状態に陥りがちなのは、もちろん個人の責任というより、これまで行政に振り回されてきたことや、むりくりな論理で抑え込まれてきた経験、評論家に煽られて萎縮させられてきた経験などが背景にある。しかし、一方で、そもそもそういう姿勢をもつことや、そういう視点で語る経験自体が不足してきた、という側面もあったのではないか。

そのように思ったからこそ、今回の授業のような機会を大切にしたいと思う。

ところで、これまでの教職課程について、「いやいや、これまでも政策批判は山ほど行われてきた」という人もいるかもしれない。しかし、それも「聞かされた」なのではないか。それをふまえて「解釈した」わけでも「語った」わけでもない。肯定でも否定でも、鵜呑みを強いるようでは結局同じである。多くの教員養成や教職課程は、今の制度や行政を前提として語られる場合(教職大学院はこちらよりが多そう)か、一方で、強烈な批判の垂れ流し(研究者教員はこちらも多そう)になるか、極端な方に行きがちである。繰り返しになるが、肯定でも否定でも、鵜呑みを強いるようでは結局同じである。

そういうどちらかではなく、疑うことから始めて、深く考え、自分の言葉で語ること、そこまでいく必要があるのではないだろうか。この授業で言えば、「歴史」から入って「自らの疑問」を起点に、「今を疑う」のである。論を聞かされ、垂れ流されるのではなく。である。   しつこいか。

そういう意味で考えてみると、そもそも、教育行政教育とか、教育政策教育、という話をもうちょっとやる必要があるのではないかと思う。

多分、教育行政や教育政策をやっている人の中心は、教育方法や授業づくりや教師教育にそんなに関心がない人が多くて、ここをちゃんとやろうとしている人がほとんどいなそうな気がする。

結果、政策や行政制度についてそのまま伝えるか、せいぜい調べて発表してきてね、みたいな形で終わっている気がする。

でも実は、各大学で結構工夫している先生もいそうな気がする。

そしてそういう話をお互いしてみたい。

一方で、これをちゃんとやろうとすると、業界の中で、教育として、というより、他の意味で燃えてしまいそうな気もする。

「何を扱うべきか」とか燃えそう。

うん。

多分。

ぼうぼう(毛ではない)。

でも、この分野をもっと盛り上げる必要があるのかもしれないと思っている。

研究会とかやりますかね。

という意思表明で終わろうと思います。

以上。

教員同士の学びあう関係・学びあう場をつくるプロジェクト

教員にとって学び続けることが大事だ、というのは、ここ数年どこでも聞く話です。

専門家として自ら学ぶことが重要なのは言うまでもないですが、例えば、自分では気づけない何かに気づけること、自分の固定化された見方を揺さぶられることなどの重要性を考えれば、他者との関係の中で学ぶこともやはり重要だと思います。

しかし、そうした必要性は理解されつつも、「ではどうやって」というところは意外と盲点になっています。今年度から、埼玉県教育委員会とご一緒して、高校を対象としながら上記の点について研究するプロジェクトに取り組んでいます。

「学びあう関係・学びあう場をつくるプロジェクト」とでも言えるこのプロジェクトは、今年度からスタートしました。埼玉県教育委員会の先生方、横浜国立大学の脇本先生とご一緒して進めてきました。

学校教育において「学びあう場、学びあう関係」と言えば、「校内研究」を思い浮かべる方もいらっしゃると思います。とはいえ、一方で、(一般論ですが)校内研究は形骸化など様々な課題も指摘されています。また、学校によってはそうした文化や慣習そのものがない場合もあります。また、校内研究ではなくても、かつては職員室の雑談のなかで、飲み会の中で、いろいろな学びがあったと言われていますが、そういったものが成立しない学校も増えていると聞きます(良い悪いは別として)。

そのようななかで、学び合う関係をどのように再興するか、創造するか、というあたりは本当に悩ましいところです。まだ「これ」と言うものが何か生まれたわけではないのですが、少なくとも、「みんなで授業を見て、みんなで話し合えばうまくいく」というほど単純ではなく、例えば校内研究について言えば、叩き合い(公開者がひたすら批判される)にならず、あるいは、空中戦(それぞれ思い思いのことを言いつつ深まりがない)にならないようにするには、一工夫はやはりあった方がいいかなと思ったりします。

そのあたりをみなさんで考えつつ、開発していきたいと思っています。

このプロジェクトをやっていて感じた点がもう一つあります。

これまで自分が学校に入って何かに取り組むときは小中学校が多かったのですが、今回は「高校」という場をフィールドとしています。小中学校ももちろん多様性はあるのですが、高校はやはり、ミッションがそれぞれ明確に異なっていることについても(頭では分かっていても)改めて向き合ったような気がします。

そういった事情を考えると、文脈も状況も文化も異なる高校に何らかの方法を押し付けても変わらないように思います。いや、無理やり変えていくことはできるかもしれませんし、変化は早いかもしれません。でも、持続性がないように思います。

我々(脇本さん、私)は、各校から数名ずつ参加されている方々に、ワークショップや研修方法等に関する講義や演習等をおこなってきました。ただこれも、あくまでベースとなる部分について一緒に考えていくもので、なんらかの方法を押し付けることは避けたいと僕は思っています。

ここ数ヶ月、各校をまわりながら、先生方の思いや直面している課題、期待などについてうかがってきました。そうした対話に時間をとりつつ、「どんな場をつくるのか、どんなきっかけづくりをするのか」というあたりは、先生方の考えで構築されていくように意識しています。

そうした先生たちご自身から生まれた場をきっかけに、学びあうことの必要性に対する気づきがうまれ、そうした文化が根付いていったらいいなぁと思いながら進めています。

もう少しいえば、生徒の学びを中心にしながら、暖かく教員同士が学びあい、何かに気づくことで、結果的に「変わっていくこと」へのハードルが下がっていき、柔軟でチャレンジングな学校組織になっていくこと。

そういう変化のお手伝いができたらなと思ってます。

【動画】働き方研修プロジェクト:巻き込み×データ対話による86校での実践を目指して

横浜市教育委員会とともに、3年間の働き方プロジェクトを進めてきました。
1年目は実態調査、2年目はモデル校実践、3年目は研修を通じて86校で実践。

この3年間の中で、私たちのプロジェクトが重視してきたのは、「自分たちの働き方を自分たちで決める」ことです。

なぜこれを大切にしてきたか。

働き方は、最後は個人に帰結します。
どんなに無理やり「定時退勤だ」と言われても、結局「帰れない人」「帰りたくない人」「帰った形で別の場所で働く人」を生んでしまいます。
それどころか、「帰れ」という側(言う側もどこか無理をして言っていたりするかもしれません)と「はいはい」と動かされる側に嫌な空気さえ流れる。
結局、腹落ちしないで押しつけられた定時退勤も、部活動休養日も、資料共有も、様々なルールも長続きしない可能性が高いです。
決めたルールも使おうと決めたシステムも、ちょっとずつゆるくなっていく、曖昧になっていく。
つまり、「ウヤムヤ化」が起きます。

だからこそ、「自分たちで決める」なのです。

以下の雑誌記事には、先日の成果報告会の様子が記されていますが、記事の中にこんな文言があります。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17938

”「『自分たちの学校にとって必要だ』とみんなで話し合って決めた改革案を途中で投げ出すわけにはいかない」”

それぞれが自分ごとと思って働き方改革に向き合われたからこその言葉ではないかと思います。

しかし、”「自分たちで決める」と言っても、「自分たちの中から」多様な意見が出て、結局何も決められないんじゃないか、何も変えられないんじゃないか・・・”
確かに、そうなり得ます。
我々もそれを危惧しました。

だからこそ、私たちは目的の共有と、対話、意思決定にこだわりました。
つまり、「決め方」です。
データを用いた対話と、ワークショップ的な手法を活用しました。
詳しくはこれから論文等で示していく予定です。

※決め方の「一端」は、下記の書籍に書いています。
スクリーンショット 2019-02-07 3.57.25
データから考える教師の働き方入門(毎日新聞出版社)

1番のポイントは、「みんなでワークショップをおこなって決めていく」ことです。
ただ、丸腰でそれを行っても上記の懸念のように、「決められない」かもしれません。
だからこそ、「その対話を可能にする」ためにデータを用いるわけですし、
「意思決定の質をあげる」ためにデータを用いるわけです。
そしてそして、これらの取り組み全体を実現可能にするために
「プロジェクトチームを組む」わけです。

と言ってみても、詳細は伝わらないと思います。笑
その辺りについても、これからアウトプットしていきたいと考えています。

最初に書いた通り、2年目はこの実践をモデル校で行いました。
我々も学校の中に入って、一緒に行いました。
そして、3年目は、それを86校で実践する、という取り組みを行いました。

この実践、モデル校に我々が入って一緒にやるとき(2年目)でさえ、それまでの学校との共同実践に比べて、難易度【1000】倍くらいでした(当社比)。
ですが、これを86校で行うのは、さらに難しかったです。
難易度【243117】倍くらいでした。

「86校で行う」というのはどういうことかというと、つまり、新任校長研修を通じて、上記の取り組みを各校で運用できるよう、86人の校長先生を支援した、ということです。

後で挙げている中原先生のブログでは、この取り組みを下記のように表現しています。
===
1. 管理職をチェンジエージェント(変革の中心人物)とした働き方改革のプロジェクトを組織してもらう
2. その(各校での:町支注)プロジェクトでは、サーベイフィードバック型の組織開発の手法を用いながら実施してもらう
3. 1と2をうまく組織化するアクションラーニング型の研修を実施する
===

なんのことやら、伝わったかどうかわかりませんが、前述の、みんなで決めていく型の取り組みを推進していけるような、その推進担当者として校長先生に対する研修を行なったということです。

正直に言って、かなりハードで繊細な研修でした。
いつ火を吹くかわからない。
そんな研修でした。

働き方の研修と言っても、「考え方」を示して実際の進め方には言及しない、
「施策の事例」はたくさん示すものの実際の進め方には言及しない、
あるいは、「施策の事例」を「これが正解だ」みたいな形で強制するもの、
そういう研修って結構あると思うんですよね(自戒を込めて)

最終的にやった施策を見せられるってのは、試行錯誤した結果のみを見せられるようなもので、
実際の肝はそこに至るまでの道中にあると思うんですよね。
でも、大抵の研修は、そこの前だけか、あとだけで、実際の進め方は見えてこない。
わからない。(まぁこれは、働き方の研修に限らないと思います。)

そんな研修、そこそこまぁまぁありますよね。(自戒を込めて。2回目。)

そうならないために、どうすればよいか、ものすごく頭をひねって考えました。
研修でこの実践をすすめるということは、上記のデータを用いた対話と、ワークショップ的な手法を、我々ではなく校長自身(もしくは校内の誰か)が行うということになります。
その当事者たる校長先生方を、研修を通じて支援した、というわけです。

データの使い方は、間違うとすぐにオジャンです。
データは、その話者のトークを補強するだけの、棍棒にもなり得ます。
そんなもんでぶっ叩いても、何も組織は動きません。
いかにデータを扱うのか、そこを丁寧に丁寧に考えていきました。

ワークショップも、推進者側の独演会になってしまえば、皆を巻き込むことはできません。
場合によっては炎上してしまう可能性もあります。
そうなれば、校内には働き方改革に対する諦めが広がってしまう。
それはなんとしても避けなければなりません。
教職員の方々が自分ごととして働き方を考えられるような、そんなワークショップについても校長先生の皆様と考えてきました。

データや対話だけではありません。
この研修では(研修内ではそういう言い方はしませんでしたが)組織開発や組織変革の知見を様々に援用しました。

一歩一歩、スモールステップで進めながら、86人の校長先生と進めてきました。
繰り返しになりますが、こんなにハードで繊細な研修は初めてでした。。。

※これらについての詳細も、今後アウトプットします

そして、この取り組みは、3回の研修のみで達成したわけではなく、
進め方等を各校内で共有するためのDVD、校内で調査を行い結果のグラフ化を自動で行うためのシステムなど、様々なツールを用いました。

DVDは今、youtubeにあがっています。
是非見てみてください。(下記の画像をクリック)

スクリーンショット 2020-02-18 10.48.30

これらの取り組みおよびDVDについては、中原先生のブログでも紹介されています。
NAKAHARA-LAB:働き方改革を「熱量アゲアゲ・現場ポットンモデル」や「詰め込み・ポットン・祈るモデル」で行ってはいけない!:現場に「対話」を促すための「働き方見直し・ビデオ映像」大公開!

このDVD作成については、中原先生もさまざまな思いが・・・
(詳しくは先生のブログ↑ご覧ください)

さて、長くなってしまいました。
横浜市との取り組みは、当然、我々(中原先生、中原研辻さん、私)だけで進めたわけではありません。
横浜市教育委員会の山本朝彦さん、飯島靖敬さん、柳澤尚利さん、山内裕介さん、野口久美子さん、根本勝弘さん、立田順一さん(現・緑園西小学校)、外山英理さん(南吉田小学校)、松原雅俊さん(横浜国立大学)らと3年かけて企画してきました。
みんなで、本当に、本当に、頭をひねって考えてきました。

そして、その結果、どんな成果がでたのか。
そういったあたりも含めてこれから論文等でアウトプットしていきたいなと思います。
このブログは、そのための決意表明みたいなものです。

というわけで、最後は書くぞー宣言で終わりたいと思います。

3、2、1、書くぞー。