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【動画】働き方研修プロジェクト:巻き込み×データ対話による86校での実践を目指して

横浜市教育委員会とともに、3年間の働き方プロジェクトを進めてきました。
1年目は実態調査、2年目はモデル校実践、3年目は研修を通じて86校で実践。

この3年間の中で、私たちのプロジェクトが重視してきたのは、「自分たちの働き方を自分たちで決める」ことです。

なぜこれを大切にしてきたか。

働き方は、最後は個人に帰結します。
どんなに無理やり「定時退勤だ」と言われても、結局「帰れない人」「帰りたくない人」「帰った形で別の場所で働く人」を生んでしまいます。
それどころか、「帰れ」という側(言う側もどこか無理をして言っていたりするかもしれません)と「はいはい」と動かされる側に嫌な空気さえ流れる。
結局、腹落ちしないで押しつけられた定時退勤も、部活動休養日も、資料共有も、様々なルールも長続きしない可能性が高いです。
決めたルールも使おうと決めたシステムも、ちょっとずつゆるくなっていく、曖昧になっていく。
つまり、「ウヤムヤ化」が起きます。

だからこそ、「自分たちで決める」なのです。

以下の雑誌記事には、先日の成果報告会の様子が記されていますが、記事の中にこんな文言があります。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17938

”「『自分たちの学校にとって必要だ』とみんなで話し合って決めた改革案を途中で投げ出すわけにはいかない」”

それぞれが自分ごとと思って働き方改革に向き合われたからこその言葉ではないかと思います。

しかし、”「自分たちで決める」と言っても、「自分たちの中から」多様な意見が出て、結局何も決められないんじゃないか、何も変えられないんじゃないか・・・”
確かに、そうなり得ます。
我々もそれを危惧しました。

だからこそ、私たちは目的の共有と、対話、意思決定にこだわりました。
つまり、「決め方」です。
データを用いた対話と、ワークショップ的な手法を活用しました。
詳しくはこれから論文等で示していく予定です。

※決め方の「一端」は、下記の書籍に書いています。
スクリーンショット 2019-02-07 3.57.25
データから考える教師の働き方入門(毎日新聞出版社)

1番のポイントは、「みんなでワークショップをおこなって決めていく」ことです。
ただ、丸腰でそれを行っても上記の懸念のように、「決められない」かもしれません。
だからこそ、「その対話を可能にする」ためにデータを用いるわけですし、
「意思決定の質をあげる」ためにデータを用いるわけです。
そしてそして、これらの取り組み全体を実現可能にするために
「プロジェクトチームを組む」わけです。

と言ってみても、詳細は伝わらないと思います。笑
その辺りについても、これからアウトプットしていきたいと考えています。

最初に書いた通り、2年目はこの実践をモデル校で行いました。
我々も学校の中に入って、一緒に行いました。
そして、3年目は、それを86校で実践する、という取り組みを行いました。

この実践、モデル校に我々が入って一緒にやるとき(2年目)でさえ、それまでの学校との共同実践に比べて、難易度【1000】倍くらいでした(当社比)。
ですが、これを86校で行うのは、さらに難しかったです。
難易度【243117】倍くらいでした。

「86校で行う」というのはどういうことかというと、つまり、新任校長研修を通じて、上記の取り組みを各校で運用できるよう、86人の校長先生を支援した、ということです。

後で挙げている中原先生のブログでは、この取り組みを下記のように表現しています。
===
1. 管理職をチェンジエージェント(変革の中心人物)とした働き方改革のプロジェクトを組織してもらう
2. その(各校での:町支注)プロジェクトでは、サーベイフィードバック型の組織開発の手法を用いながら実施してもらう
3. 1と2をうまく組織化するアクションラーニング型の研修を実施する
===

なんのことやら、伝わったかどうかわかりませんが、前述の、みんなで決めていく型の取り組みを推進していけるような、その推進担当者として校長先生に対する研修を行なったということです。

正直に言って、かなりハードで繊細な研修でした。
いつ火を吹くかわからない。
そんな研修でした。

働き方の研修と言っても、「考え方」を示して実際の進め方には言及しない、
「施策の事例」はたくさん示すものの実際の進め方には言及しない、
あるいは、「施策の事例」を「これが正解だ」みたいな形で強制するもの、
そういう研修って結構あると思うんですよね(自戒を込めて)

最終的にやった施策を見せられるってのは、試行錯誤した結果のみを見せられるようなもので、
実際の肝はそこに至るまでの道中にあると思うんですよね。
でも、大抵の研修は、そこの前だけか、あとだけで、実際の進め方は見えてこない。
わからない。(まぁこれは、働き方の研修に限らないと思います。)

そんな研修、そこそこまぁまぁありますよね。(自戒を込めて。2回目。)

そうならないために、どうすればよいか、ものすごく頭をひねって考えました。
研修でこの実践をすすめるということは、上記のデータを用いた対話と、ワークショップ的な手法を、我々ではなく校長自身(もしくは校内の誰か)が行うということになります。
その当事者たる校長先生方を、研修を通じて支援した、というわけです。

データの使い方は、間違うとすぐにオジャンです。
データは、その話者のトークを補強するだけの、棍棒にもなり得ます。
そんなもんでぶっ叩いても、何も組織は動きません。
いかにデータを扱うのか、そこを丁寧に丁寧に考えていきました。

ワークショップも、推進者側の独演会になってしまえば、皆を巻き込むことはできません。
場合によっては炎上してしまう可能性もあります。
そうなれば、校内には働き方改革に対する諦めが広がってしまう。
それはなんとしても避けなければなりません。
教職員の方々が自分ごととして働き方を考えられるような、そんなワークショップについても校長先生の皆様と考えてきました。

データや対話だけではありません。
この研修では(研修内ではそういう言い方はしませんでしたが)組織開発や組織変革の知見を様々に援用しました。

一歩一歩、スモールステップで進めながら、86人の校長先生と進めてきました。
繰り返しになりますが、こんなにハードで繊細な研修は初めてでした。。。

※これらについての詳細も、今後アウトプットします

そして、この取り組みは、3回の研修のみで達成したわけではなく、
進め方等を各校内で共有するためのDVD、校内で調査を行い結果のグラフ化を自動で行うためのシステムなど、様々なツールを用いました。

DVDは今、youtubeにあがっています。
是非見てみてください。(下記の画像をクリック)

スクリーンショット 2020-02-18 10.48.30

これらの取り組みおよびDVDについては、中原先生のブログでも紹介されています。
NAKAHARA-LAB:働き方改革を「熱量アゲアゲ・現場ポットンモデル」や「詰め込み・ポットン・祈るモデル」で行ってはいけない!:現場に「対話」を促すための「働き方見直し・ビデオ映像」大公開!

このDVD作成については、中原先生もさまざまな思いが・・・
(詳しくは先生のブログ↑ご覧ください)

さて、長くなってしまいました。
横浜市との取り組みは、当然、我々(中原先生、中原研辻さん、私)だけで進めたわけではありません。
横浜市教育委員会の山本朝彦さん、飯島靖敬さん、柳澤尚利さん、山内裕介さん、野口久美子さん、根本勝弘さん、立田順一さん(現・緑園西小学校)、外山英理さん(南吉田小学校)、松原雅俊さん(横浜国立大学)らと3年かけて企画してきました。
みんなで、本当に、本当に、頭をひねって考えてきました。

そして、その結果、どんな成果がでたのか。
そういったあたりも含めてこれから論文等でアウトプットしていきたいなと思います。
このブログは、そのための決意表明みたいなものです。

というわけで、最後は書くぞー宣言で終わりたいと思います。

3、2、1、書くぞー。

教材から作られていく人間関係

僕は、自分の出身も、教育実習も、最初の勤務校(非常勤)も、ツクコマだ。

この非常勤までの期間で、僕の授業づくりの基礎は作られたと言っていい。

「非常勤で!?」と思われるかも知れないけれど、この1年は悪戦苦闘だった。

何しろ、僕より知識がある子がゴロゴロいた。

今であればもう少し落ち着いてやるんだろうが、当時は、やっぱり「(授業的な意味で)なめられたくない」と焦っていた。

面白くない授業は容赦無く斬る、という生徒のスタンスは、卒業生であることもあって、死ぬほど理解していたから。

必死になって教材研究しまくったし、あの手この手で教育手法も試した。

たった一年ではあったが、自分の基礎を作ってもらった一年だと思う。

次に、専任としてつとめたのは、公立の中学校だ。

なんとなく、授業を変えないといけないんだろうと思っていた。

正直言って、公立の中学生に向き合うのは初めてだったからだ。

それに、中学において最も重きが置かれるのが生徒指導だというのは分かっていたから。

でも、結論からいうと、大きく変える必要はなかった。

もちろん、(言い方難しいが)既存の知識のレベルは異なる。

とはいえ、結局は、教材をきっかけに、うーん、うーん、と一緒になって頭をひねったり、互いの考えの違いを知る時間や場が人間関係をつくり、そこにまた新たな教材が水滴のようにポチョンと入ってきて、その人間関係のなかで教材が輝くというか。。。

この感じは、国立でも公立でも同じ。

良く書きすぎかもしれないし、表現が難しい。

でもそんなイメージ。

中学教員時代も他のクラスを見る機会はおおかったし、中学校を離れて研究の道に入り、他の人の授業、特に小学校の授業もたくさん見るようになったが、自分とは異なるスタイルがあるのは、今となればよく分かる。

まずいい関係性、コミュニティー(と言ってもそこの質に色々あるが、大きく言ってコミュニティー)をつくり、そして、そこがメインで、そこに教材が入ってくる感じ。

整理すると2通りあるんだけど、でも、やっぱり子どもが学べているように感じる授業やクラス(曖昧な言い方で申し訳ない)は最終的に似たようになると思う。

関係性から入るか、教材から入るか、という違いはあっても。

もう一度イメージで書く。

教材をきっかけに、うーん、うーん、と一緒になって頭をひねったり、互いの考えの違いを知る時間や場が人間関係をつくり、そこにまた新たな教材が水滴のようにポチョンと入ってきて、その人間関係のなかでまた教材が輝くというか。。。その繰り返しのなかで(結果的に)いいクラスができていく。そんな感じ。

教材と教育手法も、つきつめれば人間関係につながるのではと思う。

分からないからこそ考える そしてそこには信頼がある

ある授業での、ある先生(A)の一言について、同僚の先生(B)が言ってた言葉。

「あの先生(A)が言ってること、(そこにいる人たちに)全然伝わってなかったでしょ」

この言葉に少し引っ掛かった。なぜなら、僕自身はその先生(A)の授業中の言葉に体がビクんと反応したからだ。むしろ、

「あ、いまあの先生(A)、すごく大事なこと言ってる」

感覚的にそんな気がしたから。僕も、その先生(A)が何を言いたいのかはその場ではわからなかった。でも、体がその先生(A)のその言葉を「受け止めたい」と反応した。

実際、その言葉を三日間くらい反芻した。気になって本も読んだ。その先生(A)にメールもした。大いに学びのきっかけになった。

わからないからこそ考えたんだと思う。

わからないからこそ考える。

この姿勢を身に付けたきっかけは、やはり研究だと思う。考えて、考えて、考える。

これが他者(というか院生)にとっても意味あることなんだと気づかせてくれたのが、今年のオランダ視察。

ずーっと考え続けている院生がそばにいて話しかけ続けてくれたこと。

そのことが自分自身にもたくさん考えるきっかけを与えてくれたこと。

僕自身がある言葉について考え続けていたことが、別の院生さんに考えるきっかけを与えたこと。そしてそれ自体をその院生さんが場に共有してくれたこと。

そういう言葉がいまの自分につながっていると思う。

冒頭の言葉に戻る。

なぜその先生(B)との認識にズレが生じたか。

その先生(B)も、とても敏感で、考えることに価値をおいている先生だと思う。

でも、この場(教職大学院)が、考え続けることに価値をおいていい場なのか、それを表明していい場なのか、についての感覚には差があるかもしれない。

僕自身、いつも考えるきっかけをくれるその先生(A)に会ってなかったら、オランダに行ってなかったら、外に出していいと思えてないかもしれない。

「外に出していい」のベースは信頼だと思う。

わからないことや、わからないことを考え続けていることを、表に出していいんだという、互いの信頼。

それを得られていたり、折に触れて、見せあえていることが、大事なのかもしれない。

そんなことを考えた木曜日。

 

※なお、「分かりやすい」ことに意味がないとは全く思ってません。むしろ、すごく大事なこと。分かりやすいからこそうごく、しこうする、も多分にある。そこを二項対立に捉えたらもったいない。

26年。

中学校から出会った友達。

一緒に旅行やテニスをした。

アホなこともするけれど,自分の中の芯がちゃんと通っている人。

適当なところもありつつ,自分で自分の目標を持ち,それを大切にし,邁進する人。

彼の書く文章が好きだった。

自由で奔放でありながら,知性や品の良さも感じさせる文章。

これからも読みたかった。

こんなにも寂しいことなのか。

 

 

寂しいよ。

 

 

また会う日まで。

浮かび漂う感じから錨をおろしたい

研究の世界に入って以後,僕は職を求める中でキャリアがふわふわしていた。

あっちいったりこっち来たり。

もはや若手とは言えない状況になっている中で,ただよっていた。

これは僕だけじゃなく,今の若手研究者はほとんどそうだと思う。

その中で,研究者の職がガンガンしぼられ,生き残りをするのは簡単でないことを身をもって体験している。

自分がいる部門がいつどのようになるのか読めないし,職を失うことだっていくらでもあるだろうと予想している。

だからこそ,生き残るには攻めていきたいと思っている。

攻めたいと思うからこそ,どこでどう力を入れるのか,は丁寧に考えたい。

与えられた場所で輝く,ということとそれはちょっと違うことのように思う。

もちろん,どっちかがいいとかではなく。

やるべきことをやりながら。