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帝京大学教職大学院フォーラム そして

昨日は教職大学院のフォーラムだった。テーマは「学びに向かう力と人間性」

パネルディスカッションのパネラーは3人のうち2人が元視学官or調査官という本学らしいメンバーであり,そしてもう一人が動物園の園長さんというアクロバティックな組み合わせだった。

どうなるんだろうと思ったけれども,コーディネーターをつとめた中田先生の流石の仕切りで,どんどんと話が進んでいく。

中でも,動物園の先生のお話が抜群に面白かった。

印象に残ったことは色々あったけど,特に興味深かったのは以下の一節

「育ちたい」とか「学びたい」とか思わないのは人間くらい。動物園の中で,そうではないのは類人猿くらい。チンパンジーとか。

 

確かに,よく考えれば,ほとんどの動物は,学ぶことのほとんどが生活や生き残ることに直結する。だから,学ばないってのはあり得ない。

人間ほど,生きることに直結しないことを学ぶ動物っていないだろうな。

そう思うと,なぜそんなに幅広く学ぶのかが気になる。いくつか理由を考えた。

 

-役割分担が進みすぎて,生まれて初期の,ゴールデンエイジの時期には将来的に何をするか見えてない?

-叡智の積み上げが物凄く大きくなっており,それを維持したり拡張する人材を一定の割合で産むには,知的人材の裾野を広げる必要がある?

-人類の叡智の積み上げによって環境そのものが高度化しており,その中で生きるためには基礎として学ぶべき内容が幅広くなっている?

 

結局は,人間が社会的な存在だからなんだろう。

ただ,直接役にたつかわからないことを学ぶことに慣れすぎて,学ぶ意味を理解しないまま学ぶことに慣れすぎてしまったんだと思う。

そこを回復しようとするのが今の流れなのかもしれない。

これまではその意味自体が分からなくても,キャリアを作るためということで押し切れたけれども,そんなことはもう成り立たなくなってきた。

フォーラム後,院生数名と飲みにいく。

例のごとく飲みすぎてしまった。

ちょっと嬉しい一言もいただいた。

 

教職大学院の教員になる直前に,以下のイベントに参加したのは大きかったかもしれない

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舘野さんに,大学院の教員にどんなこと求めますか?と聞いたら,

「一緒に変わろうとしてくれること」とおっしゃってた。

その時にはわからなかったけれど,なんとなく,心に残っていた。

昨日,院生らと飲んでて自覚したのは,自分自身が「院生と一緒に学ぼうとしている」こと。

それに気づかせてくれる一言をいただいて,本当に気持ちが高まり,そして飲みすぎてしまった。笑

あべし。

 

オランダ視察

ツイッターより。
オランダの学校を院生(現職&ストマス)と見てきた。今回はこれまで以上に充実した視察になった気がする。

視察後には長時間の対話を行った。次のような対話が行われていたと感じた。
①実践を自分の現場で活用できるか考える
②実践内容やそこにいる人から、価値観を感じとり、その価値観を自分の現場で体現しようとしたらどうなるか考える
③異質なものを見る時に、自分の視点がどれだけ経験に縛られてるかを体験する
④↑を乗り越えるために、その現場で感じた事実(例、フィールドノート)に立ち返ったり、他者との感じ方の違いについて考えることを通じて、何度も「本当か」「何故か」と問い続けること。
③④の対話をする姿は、国内ではあまり見られてこなかった。異質なものに触れ、非日常の場にあり、集中的に対話の時間がとれたこと。これらの条件が揃えられたからこそであり、海外に来ることでこれらは実現しやすくなる。
対話までの間に自由時間があったのもよかった。集団行動してると、集団内の熟達者の発言にひっぱられる。
自画自賛っぽくなっちゃうけど,とにかく,今回の視察は学びが大きかった。詳細はまた今度。

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マルチタスクが苦手

現状,仕事がつめつめになって追い込まれております笑

そんなときブログ書くんじゃないという声が聞こえてきそうですが,

このハードな日々の中で思ったのは,自分はマルチタスクが苦手だ,ということです.

たくさん抱えるけど,結局,一つ一つしか処理できない(最悪やないか).

 

それをふまえると,スケジューリングとかもうちょい考え直さないといかんと思います.

 

以上,現実逃避ブログでした(この記事の執筆に要した時間 2分 まぁ許してくださいw)

 

「未来を語る高校」が生き残る―アクティブラーニング・ブームのその先へ

 

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マナビラボから本が出ました。
村松さん・渡邊さん編著、中原先生監修、JCERI執筆協力です。
僕も一部執筆しています。

「未来を語る」というのがキーワードだと考えています。
僕のマナビラボの二年間で、村松さん・渡邉さん・田中さんから一番学んだことも、このキーワードに関連しているかもしれません。

「将来、世の中はこうなりますので、こういう力が必要なので、こういう教育をやっていきましょう」みたいな話があります。
私もよくします。
その変化に合わせて学校や教育が変わっていく
その側面も非常に重要です。

でも、それに加えて、もう一つ未来への関わり方があると思います。
高校生も学校も教員も社会の一員であるととらえるならば、未来はつくっていくものでもあるはずです。
「高校生も学校も教員も社会のプレイヤー」というのは、当たり前のようで忘れがちでもあると思います
最初に示した見方は、捉え方によっては高校生や学校を社会の外に置いて、社会の未来が勝手に決まっていくようにも見えるかもしれません。

未来を予測してそれにあわせていく。
それだけでなく、今そこにいて社会の一員として「どういう社会をつくっていくか」を語る。
「未来を語る」というのは、そういう意味を含んでいるのではないか。(と、解釈していますw)

以下、もろもろのリンク。
内容については中原先生のブログに詳しいです。

●amazon
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4761925442/

●中原先生のブログ
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/10351?fbclid=IwAR3r6GqaJ6W8bFZ-4wz47upEj59teoO_NZN953m07fXECRDxBRvvCh0iQxc

教育行政と現場と研究者と

働き方も含めて様々な問題で考えてきたことだけど、僕は、教育行政は教育に関する大事なプレイヤーの一人(一つ)だと思うし、そこにいるのは「人」だと思っている。だから、何かズレがあれば対話してすり合わせてなんとか協力すべき相手だと思っている。

もちろん、権限の大きさに非対称性はあるし、逆側のコミュニケーション(行政→教員)をもっとどうにかすべきだという声はもっともだし、制度に関する認識のズレや不満も分かる。だけど、プレイヤーだと思っているからこそ、その「ズレ」をどうにかするには、教員→行政のコミュニケーションは、罵詈雑言を突きつけたり嘲笑するのではなく、対話していくべきだと感じている。

教育行政を悪者にしておけばとりあえず溜飲は下がるのかもしれないけれど、それは何も解決しない。SNSでそういうものを吐き捨ててそれが共有されて「ピース」とかして気持ちいいかもしれんけれど、対話の可能性はどんどん失われていく。ストレス解消にはなるが、解決はどんどん先延ばしになっている。

もちろん、そういうものも全て受け止めて、、、という大きな懐を持つことも行政には求められるかもしれんけど、そこにいるのは「人」だしね。どこまでも、というのは厳しい。「人と人として」「プレイヤーとプレイヤーとして」語り合えることを目指したい。

昔、指導教員の勝野先生から「町支さんはずっと同じこだわりを持っている」といっていただいて、それが何なのかわからなかったけど、この「行政と現場の対話の可能性」だったんだな、と今思う。そこに貢献したい、という気持ち。学校開発政策コースに入りたいと思ったのもそこがあったんだろうと思うし、文教交流会に魅力を感じたのもそこ。そして、行政と関わりながら現場に向き合う研究をしているのも、そこを結ぶ橋渡しになりたいという思いからなんだと思う。