カテゴリー別アーカイブ: ICT利活用

中等部でICT研修会

昨日は、青山学院中等部でICTの研修会でした。

「電子黒板や書画カメラで具体的にどんな授業がやれそうか、イメージを掴めるような研修をしてほしい」とのことでした。模擬的な授業を挟みつつレクチャーしたり、ワークしたりで盛り盛りでしたが、なんとか1時間ちょいで終わりました。短い時間で色んなアイデアを出してくださったりで、さすが青学の先生たちだなぁと思いました。

途中、ネットワークのトラブルがあったのは残念。ただ、かつてだったら、そこでただただダンマリしてただろうけど、なんやかんや繋げたので、そこは成長ということにしよう。

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(prisma使ってみました,ちょい暗い雰囲気に見える笑)

このICT研修もだいぶこなれてきた気がするなぁ。
いろんな学校でやりたい。。。連絡、お待ちしております。

変わることへの不安

物事を変えたり、状況が変わることについては、漠然と不安を感じる人は多く、そういう不安ゆえに変化を拒む人は少なくない。

『改革者』にとってはそれが不都合であったりもする。

それでも、変わることに対して不安を感じる人に「思考停止だ」とか「古いんだよ」とか言い捨ててもうまくいきそうにはない。

そんな事を言っても当事者の理解が増すことは絶対にありえないし、反発が増す可能性が高まるばかりだからだ。

そういうことを言う人は、きっと物事を前に進めていきたいと思っているわけではなく、『改革しよう』と言うことそのものを目的にしているか、『改革者』という立場を確保したいんだろうな、と思ったりする。

色んな不安を一つ一つ払拭しながら、粘りながら、それでも一歩一歩前に進めていく必要があるんだと思うけど。

それをする時間がないとしても、不安を感じている当事者に唾を吐くのではなく、少なくとも不安と向き合う姿勢を見せることが必要ではなかろうか。

市川学園alice 見学

昨日は、市川学園のアクティブラーニングスタジオaliceを見学してきた。
実は、市川学園の校長である宮崎先生は、僕にとって高校自体のテニス部の顧問であり、歴史を教わった先生でもあり、講師をしていた時の副校長先生でもある、という関係。

特に、教育学の研究の道に入ってからというもの、moocの授業活用やICT整備などに積極的に取り組まれている宮崎先生とは何度かお話ししたりご相談させていただいたことがあった。

先日も、開成の国語の教員で演劇的手法などを取り入れてらっしゃる森大徳さんや、同じく開成で英語の教員をされている山田雄司さん(参考)と宮崎先生とで教育について語り合う飲み会をしたりした。

そんなわけで、宮崎先生とは何かとご縁があり、いろいろな場面で勉強をさせていただいている。

今回は、そんな宮崎先生が校長を務められている市川学園のアクティブラーニングスタジオ、ALICEを見学させていただいた。
スタジオについては、コクヨさんのこちらの記事に写真等が紹介されている。

今回は、このスタジオで行われていた地理や英語の授業を見学させてもらった。

先生方自身に取材させて頂いたり許可を得たわけではないので、こちらでは具体的な内容や展開などについて紹介することは避けたいが、生徒たちの言葉、生徒たちの外化をうながす授業のデザインもありつつ、外化されたものを活かしたりなど、すごく「こなれた」感じでICTが有効に使われていた。
なんというか、【生徒たちの脳みそが動き始める瞬間】が見えるような授業だった。

面白かった。

という、授業自体も面白かったのだが、自分自身、さらに興味を感じたのは、学校内でのICT活用推進の取組。

・積極的に取り組み、授業やコンテンツを開発していく「エヴァンジェリスト」
・ICTに限らず、能動的な学びのあり方を追求していく部署「教育研究部」
・積極的な授業公開とフィードバックのための「OPEN CLASS」

こういったものは、まさに「学校内での教員の学びを活性化していく取り組み」だと感じた。
PLCに至るプロセスに通づるものがある。

ところで、もちろん、こういった方向性に必ずしも賛同しない教員もいるだろう。
教員には多様な考えがあり、その多様性が許されること自体は、とても重要なこと。
とはいえ、全員が毛嫌いする必要も当然ないわけで。
賛同する人たちと、そこに疑問符をつけつつ眺めていく人たちとが、近い距離感にいるような状態が良いのではないかと個人的には思う。

そういうバランスになるためには、これまでの長い歴史を考えれば、ソフトに組織的な方向性を示していくこと、柔らかく伝えていくことは重要なのではないかと思う。
上記の3つの取組は、そう言った状態へのプロセスとして、大変興味深いものだった。

どうやってこれらを導入したのか、どういう経緯だったのか、宮崎先生に聞いてみたい。

似たような点だが、「Aliceプロジェクト」という名称や、「エヴァンジェリスト」という語感は、なんとなくオシャレ。
先進性を醸すものでありながら、僕自身は、ちょっと柔らかさも感じたりする。
こういった名称のつけ方にも、何か工夫があるような気がする。
あるいは、名称のつけ方自体ではなく、そういう名称が生み出されるような空気感であるかもしれない。
そういう部分にも興味がある。

というわけで、(↑以外にも)いろんなことを感じた見学でした。
面白かった。
これからも市川学園の取り組みに注目していきたいと思う。

ところで、やっぱり、生の授業見たり、学校行ったりするのっていいよネェェェ。
最近、減ってた気がする。
もっと色んな学校に行きたい。今の状況じゃ難しいけど。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。(切実)

学校から楽しい「ものづくり」が消えたのはなんでだろ :障子とか、教育課程特例校制度とか、評価とか、プログラミング教育とか、宣伝とか。

昨日、僕は実家に行って、障子はりをした。
朝から晩までかけて、剥がして、ノリ付けて、新しいの貼って、周りをカットする、、、みたいなことをずっとやってた。
子どもを連れて行き、子どもは母さんに見てもらって、僕は作業に集中して、みたいな形。

で、昼頃には姉ちゃんが子どもを連れてやってきた。
つまり、その子どもたちってのは、うちの娘にとっていとこ。
いとこ同士はとっても仲良しで、会うとものすごくワーキャー言いながら遊ぶ。
昨日も、大盛り上がり。
(自分も駆り出されて「鬼」役をやりまくってた。障子を乾かす間とか。)

で、ふと気がつくと、子どもたちは折り紙で紙ふぶきを作ってた。
「ゆきー」とか言ってね。
その紙ふぶきを収納する道具も折り紙で作って。
その中身をぶちまけることはアビちゃん(母)に止められちゃったものの、それを作ってる時点で、かなり楽しそうだった。

よく考えると、うちの子はよくそういう事してるなーと思う。
ハサミやセロハンテープを使って、特に、遊び道具を作ったり、(うちの子が思う)必要なものをなんとか工夫して作ったり。
そういう事やってる間って、めっちゃ没頭してる。
セロハンテープの使い方とか、ハサミの使い方とか、特に教えてないけど、あるものを使って、知ってる方法を組み合わせて、なんとか作ってる。
これって、めちゃめちゃ頭使ってるし、すごく楽しいんだろうし、学んでるよなーーーって思う。
うちの子に限らず、こういうのって多いんだろうなと思う。
ものづくりを通じた自然な学び、というか。
ね。
自分も小さい時、こんなんしたと思う。

ところで、こういう場面で学んでる事って、大きく分けると2つあるよなぁ、と思う。
はさみやなんやらの使い方。道具的にどう使うか。
それから、「どうやって作りたいものを作るか」という思考というか思考方法というか。

この2つを組み合わせて、想いを実現する。
ほんで、
【出来たーーーわあぁぁーーーー】
みたいなね。

昨日考えたプログラミング教育も、そういうものになるといいかなと思ったりもした。
というのも、GLOCOMの豊福晋平さんのFacebookの投稿見て、そう思った。

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小学生のプログラミング教育をどう捉えるか。頭でっかちでCS(Computer Science)の知識とか言語仕様ばかりでカリキュラムを作れば、一番つまらない教え込み主義に堕落するだろう。むしろ、自ら身の回りのモノを工夫して遊びを創り出すような、子ども目線の発想とマッチすればプログラミングは俄然面白くなる。
子ども目線でのプログラミングの醍醐味を言い換えれば、与えられたルールの中で遊ぶのではなく、自分でルールを作って他人に遊んでもらえること、あるいは、与えられた道具をただ使うのではなく、素材や組み合わせを工夫して、自分の納得する道具を作ってしまうこと。
2月品川区京陽小で見たScratchの使い方には素直に驚いた。小2国語の児童プレゼンに小4演劇のプロジェクション・マッピングにScratchを使う。出来合いのパワポや発表名人ではなく身近な道具を工夫して使う。児童のプログラミングのスキルがその発想や活動を支えている。
京陽小で子ども達が扱うScratchはLEGOブロックのようなモノになっているということだ。出来合いアプリのようにはイケてないけれど、逆にアプリに翻弄されることもない。自分で紙を綴じて本を作ったり、模造紙にあれこれ貼り込んで新聞を作るのと同じ事を、デジタルでも自然にやっている。
このテーマで参考になるのは、キルパトリックのプロジェクト法(@ittokutomano さんのブログ参照)。児童の生活経験と連続した探求活動とスキル獲得が保証されないと、付随的反応としての動機付け・論理的思考・自己効力感は生じない。
http://ittokutomano.blogspot.jp/2013/05/blog-post_9.html
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まさにそうだよなーと思う。
リンク先の苫野一徳さんの投稿もめっちゃ参考になる。
さっき書いた「没頭する」とか「作りたいものを作る」とか、「わぁ〜できたー」とか、それを使って紙ふぶきブワァーみたいなこととかね。つながるんだろうと思う。

ところで、さっき紙吹雪作りのとこで「どうやって作りたいものを作るのか」という思考があると書いたが、この思考が行われる鍵は、「作りたいものを」にあるんじゃないかと思う。
だからこそ没頭するし、頭も使うという。

もし、決められたものを作る。
そして、そこへの手順が示されてたら、、、
「どうやって作るのか」の思考はなくなる。

あ。

「作りたいものを…」が鍵だと書いたが、それがなぜ必要なのか、という段階にとっては、「自分が欲しいもの」に限定されないかも。
自分にとって必要か、他人にとって必要か、それは限らずに、必要だと思うのが私であればいいのかな。
「【私にとって】私が必要だと思うもの」だと上記の話だし、
もう少し大人になると、「【世の中にとって】必要だと私が思うもの」とか「【他者にとって】必要だと私が思うもの」になるのかも。
PBLは、後者かな。

要は、”私が思う”ってところが鍵なんだろうし、
で、それを実現するには頭を使う、という。

以前、教育課程特例校制度(←地域単位や学校単位で、学習指導要領によらない教育課程を採用する制度)の調査をしていた時、諏訪市では「相手意識に立つものづくり科」というのをやっていた。
「相手意識に立つ」というところに非常にこだわっていたことが印象的だった。
単にものをつくる技術を学ぶんじゃないんだよね。
【私が】相手意識に立って、【私が】必要なものを理解して、で、それをどのように実現するかを【私が】考えるというところにこだわる。
だからこそ、頭を使う、という。
そこにも通じるんじゃないかと思う。

話が少しずれたけど、何れにしても大事なことは、「私が思う必要なもの」を作ろうとするからこそ、頭を使うんだ、というね。
これって大事よね。

で、上記の「相手意識にたったものづくり」の取り組みが、【特例的な科目】として実現されていることからも分かる通り、一般的に、学校ではこういう事っておこなわれてはいないかなと思う。
「必要なものを作る」の前提は、「作るべきものが限定されていない」ということ。
が、学校で行う場合は、どうしても、見本を示してしまったり、道筋を示してしまったり。

大抵は、「何を取り扱うか」が先に示されていたり、そこへのプロセスも見本が示されていたり。
そのうえで、いかに再現したか、が問われたりする。

そうすると、あまり、「没頭」はないんじゃないだろうか。

「ものづくり」科という名前から示されていたり、冒頭の紙ふぶきの例、それから、豊福さんの投稿にも一部それっぽいものがある事からも分かる通り、「必要なものをどう作るか」って話に本来一番近かったのは、図工や技術なんじゃないかなと思う。
そういう意図って、もともと、あったんじゃなかろか。
でもさ、「好きなもの作っていいよー」って、なかなか無いよね。
「見本があって、そこへのプロセスも示されてて、それをどう実現するか」というパターンだよね。

ま、ま、「そういう段階」もあってもいいとは思うんだけどね。
でも、そこで学んだ技術なりを使って、「作りたいもの作りな」の段階もその後にあって欲しいというか。
いや、「作りたいものを作る」を、先に目標として示して、【その前段階として】、つまり、作りたいものを作るための技術を学ぶ目的として、決められた取り組みをやるって感じか。
でも、そうはなってないよね。

決められたものを作る、というだけじゃね。
単純に言うと、つまんないよ。

なんで、こうなっちゃったんだろ。。。

プログラミング教育もさ、そういう話になる可能性を多分に秘めてると思うんだよね。
「必要なもの」を作るんじゃなくて、「これ作りなさい」が示されてて、そのお手本も示されてて、それってつまんないし、没頭できないし、多分、学びも全然なくなっちゃう。

どうしていつも、「決められたものを作らせる」パターンになっちゃうんだろう。

この辺りの話ってさ、よく、教師文化とか権威性とかの話になりがち。
「コントロールしたい性」みたいなね。
だけどさ、教員ってさ、子どもが何かに熱中して没頭してる姿って大好きだと思うんだよね。
好きにやらせる、とかさ。
自分たちで考えてやっていいよ、とかさ。
好きだと思うんだよね。

なのに、図工や技術も含めてそっちの方向(決められたことをやらせる)に行っちゃうのはなんでだろ。

1つの要因でしかないけど、僕は、「評価」による影響も大きいと思うよ。
評価しなきゃいけないし、それが進学につながるから、客観的に示さなきゃいけないんだよね。
「 客観的な評価×好きにやっていいよ 」はもの凄く相性悪いよね。。。
昨今の「評価」に対する周りからのシビアな目を考えると、これを避けたくなるのは良く分かるよ。
苦しすぎる。

それから、時間が取れないというね。
やっぱり、思いにフォーカスして、で、どうやって作るかを考えて、で、実際に作るという作業は、時間がかかると思うんだよね。
そういう意味で、「教える大変さ」もあるかな。

うぅ。

むぅぅ。

まぁもっと色々あるんだろうけど。

結局、学校からなんで楽しいものづくりが消えたのかってところも考えないと、ね。
そうしないと、プログラミング教育も同じ轍をふんでしまいそうな気がする。
自分としては、プログラミング教育は「作りたいものをいかにして作るか思考」と「作る技術」、両方の話になるといいなって思う。
プログラミング教育に関わる提言に「論理的思考力」とか「創造性」って書いてあるのはその辺まで考えてのものだと思う。
(論理的思考力 × 創造性、かな。この掛け算こそプログラミング教育の肝なのかも)

だけど、これまでと同じ轍をふむと、結果として、「作る技術」だけ、しかも、その真似事だけして終わる、ということになってしまいそう。
作るべきものが示されて、手順も示されて、それを再現するだけという形。
そうはならないでほしいなぁ。
「必要なもの、欲しいものを、どうやって実現するのか」の思考を落とさないで欲しい。
その辺を思うと、評価のあり方とか、時間のとり方も含めて考える必要がありそうだな。

だいぶ長くなってしまった。

もうそろそろ終えよ。

とりあえず、これまで、技術の中で行われてきたプログラミング教育とか見てみたいな。
どんな感じなんだろ。

さてさて。

障子の方は、4枚中2枚でストップ。
紙がよれているという指摘を受けて終了だった。

ま、次もがんばろ。

あ。途中で出てきた教育課程特例校制度の話だけど、調査の結果が本になってます。
よろしければ買ってください。


大桃 敏行 , 押田 貴久 (編著) 2014 学事出版
『教育現場に革新をもたらす自治体発カリキュラム改革』

カリ改革

最後に宣伝というね。笑

ではー。
(先週あたりからPV上がってんだけど、なんでだろ。。。)

プログラミング教育を何故やるのか

先日、プログラミング教育に関わる報道があった。

2016/04/20 「小学校でのプログラミング教育必修化を検討 文科省」(朝日新聞デジタル)

http://www.asahi.com/articles/ASJ4M5D4GJ4MUTIL044.html

それに関わって、自分の周りでもいろいろな動きがある。
標題の問いについて、これからしっかりと考えていくことになりそう。

この問いを考える場合、
「情報教育に関わる者として」とすると、狭い気がする。
「学校教育に関わる者として」とする考えも必要かな。

というのも、これは、二つの話を考えていく必要があって、、、

まず、「プログラミング教育はどんな意義があるのか」という話。
でも、それだけではなく、「そもそも学校教育はどういうものを取り扱うべきか」という話。

前者ばかりが問われそうだけど、後者も考えないとな。

特に後者は、昔からある大きな問い。
プログラミング教育に関わってこの問いを考える中で、
これまで当然と思われてきた内容についても再考するのは、
自分にとっても大きな意味がある気がする。

パッと思いつきで、だけど、これまでのものだと3つのパターンかと思う。

(1)その内容自体を使うから
(2)その内容を学ぶことで、何らかの力がつくから
(3)教養だから

で、それが「万人にとって」あるいは、少なくとも「多くの人にとって」ていう一言が必要なのかな。そもそもの学校教育の必要性なんかも考えると色々ありそう。
この辺、これから色々読みつつ考えていこう。
歴史的な視点、制度的な視点、色々必要そう。

そして、前者の問い。
「プログラミング教育はどんな意義があるのか」

大人でプログラミングを学んで使っている人に聞くのも大事。
プログラミング教育を既にお仕事として取り扱っている人に聞くのも大事。

その辺が自分は弱いから、いろいろと本当に聞きたい。

とはいえね、「意味あること」であるのは、やはり、必要条件に留まるわけで。
それと後者の問いがかけ合わさってくるんだろう。
「学校教育でやる」必要性とどうつなげられるか、という話。

つまり、「実際使っている人」は、「それそのものが必要だから学んだ」わけで。
それと、学校教育でやることとの違いについては、冷静に見る必要があるとも
思う。

また、企業としてやっている場合は、プログラミング教育に【何かを絡めて】セットで
やっている場合もあるわけで。
そういう場合と、学校教育でやること、その理由付けになるようなことと
どんな関係があるのかは、やはり、丁寧に見ていく必要はある。
つまり、プログラミング教育とリーダーシップとかを絡めるなら、
プログラミングを通してやれるリーダーシップ教育はどんな意味があるのか。
それらは、これまでのものとどう違うのか、その辺も見ていきたいと思ったりもする。

っていうかさ、よく考えたら、プログラミング教育って何を指しているのか、って話もあるよな。その辺は、何を目的としてプログラミング教育って話に絡んでくるから、結局、鶏が先か、卵が先かみたいな話かもしれない。

それにしても色々考えることはありそう。
こういう問題は、得てして【宗教対立】に陥りそうな気配がムンムンにする。
既にICT周りにある宗教対立を冷静に見つつ、そこに参戦するというより、
どうやったら前向きに進めていけるだろうか、という思いで、
プログラミング教育を整理をしていけたらいいなと思う。

「これからの時代、必要でしょ」とか、
「この世にコンピューター溢れとるんだから、それがどう動いてるかは知る必要がある」とか、
よく言われたりする。
「海外じゃこんだけやってる」とか
「日本は遅れてるから」とかもね。
確かにそうなんだけど、それだけじゃ、プログラム教育を意味あるものにする、
つまり、全国にあるたくさんの学校で前向きにプログラム教育が進められるような
後押しになるような「意味」としては弱い気がする。

つまり、多くの先生が腹落ちする話をね。
見定めていきたい。
それがないとさ、これまでの「絵に描いた餅」モデルと一緒になるやん。
そうならないようなさ、そういう方向性が、見えるといいよね。

——

そういえば、オバマさんがプログラミング教育について語った話があったような。
後で見てみよ。

 

Code部 : https://blog.codecamp.jp/obama_programming

オバマ氏、「すべての人にプログラミングを学んでほしい」

オバマ