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したたかに,しなやかに,地に足つけて,生きる

・なりたい自分や実現したい社会がある

・でも,人生はそんなに簡単じゃない。時には泥をのみこみながら,自分に嘘をつきながら進む時もある

・それでも気高さと自分への敬意は失わず,なりたい自分や社会を道標に向かって,地に足つけて進む

個別最適化について 

「アダプティブラーニング」という言葉を最初に聞いた時にこんな感想を持っていた

過去記事:「アダプティブラーニング」

その後しばらくして,「個別最適化」というワードがわりとポジティブに受け止められるようになり,「あれ?みんなそうなんだ,そんなもんなのかなー?」とちょっと気になって,整理を考えるようになった。
結果,個別最適化については,2つの流れがあるように感じた。

参考(あすこまさんのブログ):手段最適化と目標の設定。2種類の「学びの個別化」について。

どちらも「個別化」という流れではあるのだし,あすこまさんの書いている通り,やっていることは重心の違いだとは思う。
とはいえ,これまでの学校とは違う,というところは同じだけど,そこに関わっている当事者の目指す姿とか学力観とか,思想は異なるように思う。(いや,異なるけどその先は同じかもしれない,とも思う)

その違いは基礎学力はこっち,その他はこっち,みたいに整理されがちで,まぁその通りかな,とも思ってるけれど,それをどうつなげるとか,本当にそんなに単純に整理できるのか,それは残されている課題だと思う。
当事者の人たちはどちらもちゃんと違いを分かっていて,現状ではひとまず「ラインをひいて」いる状態だと思う。

でも,改めて書くけど,どうつなぐか,どういう関係なのか,というところは現状まだ整理されていない。
特に,最近思うけれど,当事者じゃない人にはそのラインや違いが見えてないままになっている可能性が高い。
両者の違いというより,アダプティブな形のものをどう扱うべきか,というところに思想や手立てがないように思う。
その状態のまま,ただただその「当事者じゃない人」が点数を欲して両手を挙げて入れ込むとグシャグシャになりそう。

そして,それは当事者も望んではいないんじゃないかと思う。
思想の違いだけが先鋭化して宗教対立になることは避けたいと思っているんじゃないか,と。
整理できる形で入りたいのか,そもそも入りたいと思っていないのか。
そのあたり,話してみたい。

僕自身は,「抗う」ではないと思う。
宗教対立を避けつつ,整理して出会わせる,境界に立つ人が必要だよな,と思う感じ。

給料と働き方

働き方の話,いつも「教員の給料あげればいい」って話になる。

そりゃそうですが,そんな簡単にいきますかね。。。

教員の大変さも伝わってきたけど,教員の働き方が非効率であることはもっと昔から多くの人に直に伝わってしまってきたことであって。(学校に関わる仕組みについての保護者等からの疑問や不満はそこかしこに見られる)

そこに手をつけないまま「大変だ」と言っても,そこに予算投じてもらえるとは到底思えない。

だからこそ,給料増は引き続き求めつつも,自分たちもやれることやってかないといけないんじゃないか,と思う。

マルチタスクが苦手

現状,仕事がつめつめになって追い込まれております笑

そんなときブログ書くんじゃないという声が聞こえてきそうですが,

このハードな日々の中で思ったのは,自分はマルチタスクが苦手だ,ということです.

たくさん抱えるけど,結局,一つ一つしか処理できない(最悪やないか).

 

それをふまえると,スケジューリングとかもうちょい考え直さないといかんと思います.

 

以上,現実逃避ブログでした(この記事の執筆に要した時間 2分 まぁ許してくださいw)

 

教師の不祥事をどう見るか;専門性への信頼と引き受けられるリスクの大きさ

人と人のかかわりだから、どうなるかわからないけれど、その場の一瞬の判断で踏み込まないといけないこともある。そしてそれが失敗すれば責任をとらざるを得ないのがプロ。特に学校の場合は子どもも関わるから、責任を取ったぐらいでは許されないのが、教育のプロ。「不確実性」と一言で言えば他の業界と一緒だけれども、その振れ幅の大きさと予測可能性の低さと影響の大きさ・深刻さと、個人が取るべき責任の大きさはかなりでかいと思う。

業界単位で言えば、その覚悟もなく無頓着に踏み込むことが多すぎるから社会や世間から批判されて当たり前だと思うし、特に、個別の事例としては批判されて当然。親目線でみても、仕方ないではすましたくない。一方で、そういう内実も難しさもおそらく想像可能な立ち位置の方が、そういう失敗例をことさらに強調して、一面的な批判で全体の信用をおとしめるようなことをするのは、何を目指しているんだろうと思う。

その結末として想定されるのは、何も問題を起こさないところに業界としてラインを引くこと。規則で縛っていくこと。問題も起きないかわりに、学びも成長も制限されていくし、柔軟な対応もできない。教員に自由を許さないから、その先の子どもにも自由を許せず、強烈なコントロールをかけようとするんだと思う。スタンダードが良い例。

(なお、このことを言い訳に甘えるのも逆に違うと思う。)

結局のところ、専門家がどこまで信頼を得られるか、という話だと思うし、それに見合う力をもっているか、ということ。今、世間の見立てとしてはかなり低い。許される権限の大きさと、引き受けられるリスクの大きさは、大きく言えばセットなわけで。専門家として信頼されているからこそ、自由が許される、リスクのある判断も可能になる。信頼されなければ、即興的な判断よりも、事前のライン引きが優先される。

学びの質を高める専門家でありながら、子どもを守る専門家でもある。つくづく難しい仕事だと思う。自分自身について言えば、そこから逃げずに覚悟をもって働く人が、より専門家として力量を高められる手伝いをしたいし、自分自身も逃げずにその責任とリスクを引き受けながら教師教育を行いたいと思うし、同時に、その専門性が社会から認められるように働きかけたいとも思う。少なくとも、逆側に立って必要以上に断絶を強調するようなことはしたくない。